Up 「集合と論理」 作成: 2009-12-17
更新: 2009-12-17


    数学は,言語で論述される。 その言語の主題化は,形式言語論とか数学基礎論のレベルまで溯るのが本道ということになるが,それをやり出したらしばらく抜けられなくなってしまうので,普通は「集合と論理」から始める。

    一般に,言語は統辞論と意味論でなる。
    統辞論とは文法のことで,これはつぎのことを定める規則を明示する:
    1. この記号列は,語である・語でない
    2. この記号列は,文である・文でない
    意味論は,数学では真理値論である。すなわち,つぎのことを定める規則を明示する:
    1. この文は,真である・真でない

    数学を正しく行えるためには,数学の言語 (統辞論・意味論) を知らなければならない。 この意味で,「集合と論理」の修得が必要になる。
    実際,「集合と論理」を通過していない者は,必ず言語を奇妙に・危なっかしく・間違って使う。 そしてそのことを意識できない。 指摘されても,わからない。

      <指摘されてもわからない>の典型が,循環論法である。
      循環論法の意味は,「Aの構成要素Bを,Aから生成しようとする」である。


    「集合と論理」で数学の言語 (統辞論・意味論) を学習することは,同時に,数学の方法を学習することである。 よって,「集合と論理」の科目は重要である。
    しかし,専門数学担当教員が「集合と論理」の授業をすると,必ず大局観──<学校数学の数学>──のない内容になる。 「基数・順序数」の細かい話や「実無限」の話とかにすぐ行ってしまうのである。
    「集合と論理」の時間枠は限られている。 この限られた時間枠に「必要な学習内容」を詰め込もうとすれば,<学校数学の数学>の大局観が必要になる。

    「集合と論理」の授業がうまくいっていない理由の一つに,教科書として使える本が市販のものには無いということがある。 <学校数学の数学>の大局観から書かれた「集合と論理」の本がないのである。 実際,「集合と論理」の本を書く者はこの分野の専門ということになり,これは仕方がない。
    したがって,「集合と論理」の授業をする者は,「集合と論理」の教科書を自らつくる者でなければならない。 しかし,<学校数学の数学>がある程度わかるようになってからでないと,これはむずかしい。