Up 「無い袖は振れない」を知る 作成: 2006-05-04
更新: 2006-05-04


    移行期旧課程は,本館の旧課程インフラの壊滅 (本館改修工事による) と旧課程担当教員の漸次移籍で,立ち上がりから無理なやり繰りを強いられている。

    移行期旧課程の運営では,この「無理」の内容をきちんと捉える必要がある。 これをしないと,個々の現場を知らない/知ることのできない/知ろうしない執行部は,必ず「無謀」をやらかしてくる。 そして,「無理」の内容は基本的に物理的なものであるので,この「無謀」は組織を物理的に破壊する。


    旧課程担当スタッフに課せられている「やり繰り」は,移行期旧課程において大学の体(てい) を保つためのやり繰りであり,これ以外ではない。

    法人化以降,一種の集団狂気 (パニック) が起こり,「大学」の体(てい) がまともに考えられなくなっている。 大学経営を「生き残りの営業」の感覚で進め,本業壊しをしている。
    本業は研究と教育であり,そしてこれの正道・王道を歩むこと。しかし,「生き残りの営業」感覚で大学を考えることが習い性になった者たちには,教員は営業スタッフとして映る。──開発・製造部門をないがしろにして営業へ。売るものを壊して売りに走る愚。

    移行期旧課程を非常事態にしてしまった大学執行部は,移行期旧課程を非常事態のように運営しようとするだろう。これをさせてはならない。バタバタの態で「継ぎ接ぎ・絆創膏貼り」が始まりそうないまこそ,正気を示すことが必要になる。 そして,大学の体(てい) を保つことが,ここでの「正気」だ。


    大学の体(てい) を保つやり繰りとして,「移行期開講計画」が立てられた。
    教員は「授業と雑用」で構成されているのではない。「研究と教育とそして雑用」で構成されている。(「授業」ではなく「教育」であることに注意!)そして,この教員があって,移行期旧課程は成り立つ。
    移行期旧課程は,「無い袖は振れない」を与えられた条件として,大学教育を保つ。これがここでの合理主義だ。

    しかし,執行部は早くも,移行期開講計画の変更がほとんど随意であるかのような物言いをし始めた。
    個々の現場を知らない/知ることのできない/知ろうしない執行部には,移行期開講計画が立てられた微妙なバランスは理解できない。一部の変更がどこにどのように影響するかは,個々の現場──研究と教育の現場──にしか分からない。

      例えば,構成が体系的な教科では,一部の変更は,変更の雪崩現象を引き起こす。

    「教員と油は絞るほど出る」の狂気が形になって現れないよう,「無い袖は振れない」の正気を絶えず示し続けていくことが必要である。