Up 課程再編の不実 作成: 2006-04-02
更新: 2006-04-02


    国立大学の国立大学法人化は,もともとは国立大学のリストラであったが,時間の経過とともにわけのわからないものになってきた。

      「わけのわからない」の意味は,だれが責任担当になっていて,そして国立大学をどの方向にどのような形で主導しようとしているのか,わけがわからなくなっているということだ。
      リストラの課題を具体的にしようとするやいなやこの課題の複雑さが目の当たりになり,これに圧倒され,腰砕けの態になった。

    わけのわからない状態に陥ってしまったが,いったん起こした施策は進めなければならない。 というわけで,現在この施策は,大学が「再編」で応える<ゲーム>になった。「再編」の自己目的化である。
    国立大学は,基本的には,社会的ニーズへの対応という形で成長してきた。しかしいまは,上からの「再編」の課題に応えるという形で,その本質・内容を変えようとしている。

    この構図の不健全さは,言うまでもない。
    国立大学は<お上>に上目遣いして,実質ではなく体裁で,時代に棹さそうとしている。社会に対する<正直>を捨てる。


    「再編」の最大の要目の一つが「課程再編」。
    この課程再編が,社会に対して (また先人に対して) <正直>なものかどうか,見ていく必要がある。

    大学の構成員は同じ。各構成員の専門 (社会に対して自らが正直になれるもの) も同じ。授業 (学生に対して自らが正直になれるもの) も同じ。しかし,課程の名前はばっさり変えられ,大学の新しい存在意義が謳われる。
    ここには,明白に<嘘>がある。


    大学は何をもって「大学」と言えるか? <学>の質の高さをもって「大学」と言える。 <嘘>を潜ませた課程再編で新装開店の大学は,何ものか? 単なる「テーマパーク」である。

    大学をテーマパークにとり替えるのは浅知恵だが,この浅知恵のアタマの中は,
社会的ニーズ = 集客力
    のようになっている。

    しかし,実際のところ,テーマパークは短期間で終わる (短期間で集客力を失う)。なぜか?──内容が薄っぺらいからだ。 何度訪れても到底尽くすことのできない深みというものがない。


    また,「国立大学法人」に現に見られる「課程再編」は,「旧いものを新しいものに替える」でもない。 すなわち,「旧いものを新しいものに替える」という言い方で合理化できる内容のものではない。 (そもそも,学問は普遍性をもって自らを立てようとする。──「旧い・新しい」の尺度を超えられないようなのは,端から「学問」にはなっていない。)

      「数学」と言えば旧くて,「地域と数学」と言えば新しいか?(笑)

    「旧いものを新しいものに」の感覚で大学のテーマパーク化に邁進する浅知恵に,先ずはストップをかける必要がある。 そのために,「学問」と「イベント」の違い,「大学」と「テーマパーク」との違いを,バカにせずに,はっきりさせていかねばならないようだ。