Up 気兼ね・無責任の精神風土 作成: 2005-11-20
更新: 2006-08-24


    大学執行部の独善・独走がもたらす組織破壊については,彼らの独善・独走を許している側も同罪である。
    実際,執行部の独善・独走は,大学の組織風土が生んだものに過ぎないとも言える。
    この組織風土を改めない限り,同じ事が繰り返される。

    「独走を許す」は,「議論を起こさない」に遡る。
    提案内容に問題のあることが歴然としており,しかも議論を起こさねば提案通りになることがわかっているとき,議論を起こさない。これが,「独走を許す」の形である。

    問題を見ながら「議論を起こさない」は,「無責任」を意味する。

    問題を見ても議論を起こさない心的状態には,つぎのような要素がある:
    • 気後れ (勇気のなさ),気兼ね/遠慮
      • 相手を不快にすることを恐れる  
          一生懸命にやっている同僚に,「これはダメ」は言えない。  
      • 事後身に降りかかるかも知れない不利を恐れる
    • 諦め
      • 発言しても無駄
      • 相手不信
    • 無関心
      • 自分は,当該問題の外に居られる
    • なれ合い/なあなあの関係
      • なれ合いが,マナーになっている

    一方,議論を起こしにくくするための<仕掛け>もある:
    • 資料になっていない資料: 雑ぱく,だらだらとした文章,数値や図がない,等
    • テレビ会議
    • 緻密な議論が困難な環境 (プレゼン環境なし)

    「議論を起こさない」根本の理由は,責任問題を出さない (責任回避) ということだ:
      議論を起こすと,責任問題が生じる。
      他人の責任を問わないかわりに,何かあったときに自分も責任を問われないで済む。

    <仲良し>を保つという智恵をそこに見ることもできるが,長老政治を保つという悪知恵も見ることができる。 教授会も,この善意と悪意の同居する場の例外ではない。
    そして,組織の改変期にこれから脱却できないと,失敗プロジェクトを生み,最悪,組織崩壊に至る。

    要するに,大学におけるデモクラシーのレベルは,「"デモクラシー" を聞いたことはあっても,デモクラシーを知らない」というものだ。 ──つぎのデモクラシーの常識が,実行されない:
    • <個人>と<役割>を峻別する (この峻別にルールを用いる)
    • 問題に際して,目をつぶらない,曖昧にしない,隠蔽しない,事実を伝える
    • 見切り発車させない (果敢と無謀の区別)
    • 提示されてきた作業値 (目的/意義,要件定義,設計,計算等々) に,細かなチェックを入れる
    • 仔細な議論を組み立てる (明文化する,形にする)
    • 連絡・報告を密にする

    デモクラシーの必要性に対する理解も,総じて不確かなのだろう。