Up 相互不信・疎遠 作成: 2005-12-12
更新: 2006-08-24


    法人化以降,大学の方針を決めるのは,構成員の協議ではなく,「学長の強力なリーダシップ」ということになった。 決定は一方的なものとなったので,従わせる側と従わせられる側の区別が形成された。 そして,従わせる側と不本意に従わせられる側の関係は,自ずと敵対的関係に進む。

    敵対的関係が現れると,関係の漠然としたところが不安に感じられてくる。 そして,「敵·味方」幻想の醸成が起こる。
    組織は,「敵·味方」幻想に蹂躙されると,短時間のうちに回復不能な末期的症状に至る。


    サヨク的な土壌は,「敵·味方」幻想を醸成しやすい土壌の一つ。
    実際,デモクラシーでは「個の多様性」の主題になるものが,サヨクでは容易に「敵·味方」とか「前衛·大衆」の主題にされる。
    それから,ひとは本来セクトをつくるのが好き (悪者論が好き) なので,<頭抜けたセクト主義者>がいれば,それを中心に容易にセクトがつくられる。

    歴史的事例が示すところでは,
    • <頭抜けたセクト主義者>は,個人的な好悪をセクトを利用して組織の問題に持ち込む。
      特に,仲違いしている<頭抜けたセクト主義者>が,彼らの対立をセクトを利用して組織の問題に持ち込む。

    • サヨク的な土壌で,仲違いしている<頭抜けたセクト主義者>が,彼らの個人的対立をセクトを利用して組織の問題に持ち込むとき,その問題において本質的でない対立の構図が持ち込まれるので,その問題はぐちゃぐちゃになり,空中分解する。

        2つのセクトは対立していても,お里はサヨクで同じ。
        組織の問題に対しては,彼ら流の表層的な手続き論で先ずやり合う。
        これが延々と続く。
        結果,問題の核心に手が付けられる機会が奪われる。

    • 対立していても同根・同類である2つのセクトでは,理解可能なものと理解不能なものも同じ。
      彼らにとって理解不能なものは,議論の外にはじかれる。
      議論の外にはじかれたものにとっては,対立セクトの対立は「共謀/協働」に過ぎない。


    「敵·味方」幻想は,組織における個人の役割幻想の一つ (強力な一つ) になる。
    特に,「多様な個」の形で個が存在することが,難しくなる。
    個は,勝手にセクトで色分けされる。──このような形で単純化されてしまう。
    「敵·味方」幻想は,組織を漠然と覆う。漠然としているために,いっそう相互不信・疎遠が進行する。


    他人事 (ひとごと) 化が起こっている組織は,「敵·味方」幻想にとらわれやすい。
    他人事化する者の側は,他人事化される者から自分が「敵」に見られていると勝手に思い込む──疑心暗鬼。
    他人事化される者も,その立場において疑心暗鬼になる。
    こんな具合で,「敵·味方」幻想が他人事化と重なるときの相互不信・疎遠の進行は,ひじょうに速い。

      人には「他人の禍を自分のことのように考える」性向がある。 同時に,同情/共感が無理・無用となる状況に置かれると,「自分に直接禍が及ばない事を,他人事に考える」が性向として現れる。 他人事化が起こっている組織は,しばしば,他人事化の性向が政治的に悪用されている組織である。(他人事化の戦術を用いる政治の先にあるのは,組織の<破局>である。)


    「敵·味方」幻想を収め,生じさせないための方策は,何か?
    組織の中にデモクラシーを浸透させることであり,この他ではない。