パブリックコメントは,徹頭徹尾,「知的正直」の相互信頼関係の上に立つ。
この信頼関係のないところには,パブリックコメントは立たない。
実際,「不誠実に扱われるだろう」と予想しながらしかし「自分は誠実に意見をつくって送る」という者はいないし,「不誠実な意図でつくられた意見だろう」と予想しながらしかし「自分は誠実に意見を拝聴する」という者もいない。
パブリックコメントが本来成立しないところで実施される「パブリックコメント」とは,ではどんなものということになるのか? ──つぎのどちらかだ:
(a) 世の流れに体裁的/惰性的にのった内容のないもの
(b) 執行側の策略的/戦略的なもの
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知的正直の信頼関係は,第一に,組織風土の問題である。
人は,日頃の行動・言説によって,他から絶えず品定めを受けている。
この人間関係において知的正直がないがしろにされることが常態となり,相互不信が醸成されている組織では,本来の意味のパブリックコメントは成立しない。
つぎに,個々のパブリックコメント実施においては,知的正直が相互につぎのように測られる:
- 執行側の知的正直は,以下で測られる:
- パブリックコメントにかける案のクオリティ
- 意見の取り扱いの適正さ
- 意見を出す側の知的正直は,以下で測られる:
- 意見のクオリティ
以下,この各項目について説明する。
A. パブリックコメントにかける案のクオリティ
「クオリティ」の内容になるものは,ひとことで言うと「適度な完備性」である。
完備とは,明証性・計算可能性の点で完備であるということ。
適度とは,読み手の度量およびコストの点で適度であるということ。
「適度」では,「愚民主義=エリート主義」に陥らないよう注意しなければならない。
本論考を為すきっかけになった「北海道教育大学中期財政指針(案) ─入るを量りて出ずるを制す─」は,完備性 (明証性・計算可能性) においてまったく失格である。執行側がこの内容を「適度」であると考えたとすれば,「愚民主義=エリート主義」に陥っているか,あるいは戦略として意図的に行っている (知的不正直) と,断じられる。
B. 意見の取り扱いの適正さ
「適正さ」の内容になるものは,ひとことで言うと「実施内容の開示 (意見募集対象者全員に開示)」である。
特に,出てきた意見の個々に対し,以下を開示すること:
(1) については,
(1a)「意見そのものの開示」という点から,意見募集においては,意見開示の際の「実名・匿名」扱いを応募者に選択させることが必要になる。
わたしの個人的考えでは,パブリックコメントに対する匿名応募は理由がない。応募は自己責任であり,実名を用いることが責任を負う形になる。
(1b)「意見そのものの開示」として,執行側は意見を編集してはならない。
昔,大学の教務システムに関する意見募集に応じたことがあった。実名で恥じることは何もなかったのだが,仲介者によって匿名扱いにされ,さらに内容を編集された。しかも,岩見沢校では意見募集に応じた者がもう一人いたが,2つの意見を一つにあわせて編集するというものであった (このため,2つの意見の主旨がともに微妙にずれる結果となった)。
わたしも,その別のひとりも,なぜこのような措置をするのか,ひじょうにいぶかったものだ。
そのときわたしが思ったことは:
「執行側は,<意見応募>を (人権問題を訴えるのに似た) プライバシーの問題と見ているのではないか」
「執行側は,意見の集約・編集に自分の存在理由を見ているのではないか」
わたしの想像はさておき,常識的に,「意見そのものの開示」にプライバシーを配慮する必要は全くない。──パブリックコメントは,募集者と応募者の間の納得ずくの行為だ。プライバシーを配慮して欲しい意見提出は,そもそもパブリックコメントに応募という形ですべきものでないし,そしてそれ以外の形でできる。
また,「集約・編集」の理由となるものは
であるが,(1) については,メディアがデジタルなので考慮する必要がないし,(2) については,読み手の自己責任ということで,考慮する必要がない。
C. 意見のクオリティ
「クオリティ」の内容になるものは:
- 立場の明示
- 主張の明示
- 理路整然
さらに明証性・完備性が備わっていれば申し分ないが,そこまで要求されると意見応募の敷居が高くなり過ぎるので,これは上のリストに含めないとする。
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