Up 「再編」の思考様式:「生活単元」的合科主義 作成: 2008-07-22
更新: 2008-07-22


    「大学院再編」は,つぎの考えでリードされようとしている:
      「大学院の課程を,学部の課程の延長のような姿格好に改める」

    「国立大学の法人化」への対応ということで,北海道教育大学札幌校は「小学校教員養成課程」として立つことに決めた。 そして,この再編をリードした考え方が,「生活単元」的合科主義である。

    「生活単元」的合科主義は,教育を専門とする教員であれば,「ああ,またあれか」みたいなリアクションになるようなものである。
    それは周期的に起こり,失敗とともに止む。
    この顛末が,教育史の一節になって残る。
    教育専門の教員は,職業柄この歴史をよく知っているので,「ああ,またあれか」となる。 ──この「ああ,またあれか」には,「また性懲りもなく‥‥」が含まれる。


    しかも,学校教員養成課程を「生活単元」的合科主義でやろうというのは,小学校を「生活単元」的合科主義でやるのと話がまったく違ってくる。
    実際,学校教員養成課程を「生活単元」的合科主義でやろうというのは,倒錯である。
    なぜか?

    学校教員養成課程は,教育を科学/学術するところである。
    科学/学術を立てようとすれば,分科主義になる。

    例えば,「生活単元」的合科主義を勉強/研究しようとする。
    その勉強/研究方法は「生活単元」的合科主義か?
    外国の勉強/研究では,外国人になるのか?
    原始社会の勉強/研究では,原始人になるのか?

    「生活単元」的合科主義の課程再編論者は,小学校を「生活単元」的合科主義の場と定める。 そして,「生活単元」的合科主義の場である小学校について勉強/研究する大学は,同じく,「生活単元」的合科主義の場でなければならないとする。
    ──「カテゴリーミステイク」の認識はさらさら無い。

    しかし「大学院再編」の議論をリードすることになるのは,このような者たちである。