Up 日本史専任欠員と組織のインテリジェンス 作成: 2008-04-03
更新: 2008-04-03


    経済主義に立つ私学は,パートタイマー教員を多用する。
    「法人化」以前の国立大学は,守備領域としている分野のすべてに専任を置く。

    両者の違いは何か?
    国立大学がすべての分野に専任を置くのは,それを「社会的役割」としているからである。
    経済主義に立てば,いまの「法人化」の国立大学がそうであるように,パートタイマー教員を多用して金を浮かせることを考えるようになる。 これをしなくていいようにするため,経済主義からフリーな大学を,国立大学として立てる。

    そこで,問題はつぎのようになる:
      なぜ,パートタイマーはだめで,専任なのか?
    これが,「日本史専任欠員」の問題の本質的な立て方である。


    なぜ,パートタイマーはだめで,専任なのか?」の問いに対する答えが何になるかを見るために,正規社員だけの会社とパートタイマー多用の会社の違いを考えてみる。
    両者の根本的な違いは,企業のインテリジェンス/文化が育つか育たないかである。

    組織のインテリジェンス/文化は目に見えないので,ひとの意識にのぼりにくい。 損失がわかりにくい。


    北海道教育大学札幌校での「日本史専任欠員」の意味は,北海道教育大学札幌校の大学としてのインテリジェンス/文化の損失である。 この損失は目に見えないので,気づかれない。

    大学のインテリジェンス/文化は,この種の見えないものの蓄積である。
    経済主義は,この見えないものを捨象する。そしてほんとうに捨ててしまう。
    ゆえに,経済主義は,インテリジェンス/文化の破壊,組織の破壊になる。


     註 : 「捨象」は,すべての科学において,方法論の基本中の基本である。
    科学は,確信犯的に捨象を行う。
    「確信犯的に行う」という意味は,捨てているものに意識的でいるということである。 捨てているものに意識的でありつつ「捨象」の効用を採るということ。
    よって,科学を行う者は「捨象」の哲学を本来持っている。

    ところが,「法人化」で,国立大学人は経済主義に手も無くやられてしまう。 「経済主義の捨象」「大学のインテリジェンス/文化」を立論するような理性を失う。
    これはどういうことか?
    <酔っぱらう>という現象である。 ( <愚>の構造)