Up 名前 : 要旨 作成: 2015-06-14
更新: 2015-06-14


    「雑草」を具体的に挙げるとき,それは名前のついた草である。
    名前を与えられることは,存在を認められることと同じである。
    逆に言うと,名前がないとは,存在してないということである。

    名前のついた草の間には,貴賤の差別は立てられない。
    分類の違いがあるのみである。
    名前をつけるとは,対等の存在にするということである。

    翻って,存在にすると不都合な対象には,それの名前を考えないようにする。
    「雑」の中に放り込んでおく。

      奴隷には,名前を与えない。
      受刑者は,番号で呼ぶ。

    草の勉強は,名前による草の同定から始まる。
    名前がわかることが,対象を得ることである。

    名前なんかどうでもよいではないか──実際,名前は恣意的につけるのみである
    名前が恣意的であることは,名前がどうでもよいことではない。
    名前があって,存在になる。
    名前がわかって,自分にとっての対象になる。


    名前をつけることは,連続体を分節化していくことである。
    命名以前の世界は,雲である。
    この雲に,「雑」の名前を与えている。
    翻って,「雑」の名前を用いる者は,専ら雲を見る者である。

    自分が専ら雲を見ていることは,意識されない。
    これを意識する方法は,<個>を描いてみようとすることである。
    実際,描けないのである。

      画家は,<視る者>になろうとする。
      このとき,スケッチを修行の方法にする。
      描くことが,見ることである。
      描いてはじめて,見るになる。


    もっとも,雲の分節化は,小さな雲への分節化である。
    名前をつけることは,小さな雲を存在にすることである。
    この小さな雲をさらに分節化しようとすれば,また名前をつくる。
    どの段階でも,《名前を用いることは,専ら雲を見ること》。


    名前の機能は,存在をつくることに加えて,もう一つ重要なものがある。
    名前には,情報が付随している。
    名前がわかるとは,この情報を利用できるということである。