Up はじめに 作成: 2015-06-14
更新: 2015-06-14


    (1) 「雑草学」

    「雑草」という概念が,人によってつくられる。
    一般に,概念をつくるのは,その概念の機能を要するからである。
    「雑草」概念の機能とは?

    「雑草」の概念の人にとっての機能性を理解することは,実は,人を理解することである。
    そこで,「雑草」の概念の学を,「雑草学 (weedology)」として興してみることにした。

    ここで興そうとする「雑草学」は,実際には,「雑」の概念の学としての「雑学」である。
    実際,「雑草」の概念の本質は,「雑」にある。

    ではなぜ,最初から「雑学」としないのか?
    「雑学」にすると,<個>が立たないからである。

    先回りして謂うと,「雑」の本質は「個の隠蔽」にある。
    「雑学」は,「<個隠蔽>の機序」の学である。
    このとき,「雑学」でやってしまうと,領域が漠然となって個が立たない。
    このことは,「フィールド研究が立たない」の一事からも,首肯される。

    <個隠蔽>は,人の行動様式で根幹となるものの一つである。
    人の生活には,<個>を見てしまうと行えないことがいろいろある。
    これを行うときには,<個隠蔽>をやっている。
    どのように?
    「雑」の概念を立てこれを用いるわけである。

    「‥‥人」「‥‥族」の括りは,「雑」の一種である。
    民族差別・民族虐殺では,相手を「雑」にしている。
    民族差別・民族虐殺は,<個>を見るとできなくなることである。

    <個>を見てしまうと,何が起こるのか?
    リスペクトが生じるのである。
    「情がうつる」も,これの一種である。

    なぜ,リスペクトが生じるのか?
    <個>は,ぞれぞれにすごく巧妙に出来上がっているものだからである。
    (「柳緑花紅真面目」)


    「雑草学」は,いま簡単に述べたように,人の重要な行動様式としての<個隠蔽>について,これの機序を学の主題として立てるものである。
    ここでなぜ「雑草」かというと,<個隠蔽>に対するところの<個>が,手近に捉えやすいからである。
    ──たとえば「虫」だと,動くので捉えにくい。


    (2) 「雑草」の含蓄

    「雑草」の語には,「駆除」が続く。
    翻って,「駆除」をするには,「雑草」を立てる必要があるわけである。

    雑草駆除は,園芸植物や山野の草を愛でることと,人のうちでは矛盾しない。
    「雑草駆除」の者は,一方で,「自然保護」の者を自任し,善い種・悪い種を立て,善い種を悪い種から守ることを自身の使命にする者である。
    構造的に自家撞着であることは明白なのだが,人はこの自家撞着を矛盾とはしない。
    そしてこれは,民族差別・民族虐殺と同型である。


    (3) アンチ・モラル

    「雑草学」は,アンチ・モラルである。
    人は人を差別してはならない──なぜなら,人には人権があるから」のようなことは言わない。
    「雑草学」だと,つぎのように言う:
      人は人を差別する──そこで「人権」の導入となる

    モラリストは,潔癖性である。
    この潔癖性は,「雑草駆除」の者の潔癖性である。
    雑草は駆逐しようとすると,「つぎからつぎと生える」。
    しかし実際には,草の成長は遅々たるものである。
    また,雑草が駆除された土は,乾いた土になり,なかなか草が生えない。
    「生えるな」と思えば,生えてくる。
    「生えろ」と思えば,生えてくれない。
    そういうことである。

    モラリストが「人権」を唱えるのに終始するのは,「リスペクト」の機序を知らないためである。
    モラリストは,「差別」は悪い心・劣った心が行うとする。そこで,道徳心・倫理意識の涵養を説く。
    雑草学の方は,つぎのように言うのみである:
      リスペクトされているうちは,差別されない
    雑草学の立場では,「差別」は是非の無いことである。

    実際,ある対象を差別しない・殺さない者は別のある対象を差別する・殺す者である。
    人は,この自家道着を自分のうちで矛盾とはしない。
    これは,良い悪いの問題ではない。
    単に,人とはそういうものだということである。
    ──雑草学は,人の行うことを,達観する。