Up 「雑草学」方法論 : 要旨 作成: 2015-08-22
更新: 2015-08-22


    1.「雑草学」の意義

    「学」のもとは,「己の理解」である。
    人は,己を理解しようとして「学」を立てる。
    己を理解したいと思うのは,己という存在が何とも不思議だからである。

    己という存在を理解することは,己を存在たらしめている系を理解することである。
    この系は膨大である。
    人は,自分が取り付けそうなところを探して,これに取り付く。
    この営みが「学」になる。
    「学」の多岐多様は,取り付き方に際限がないためである。

    「雑草学」は,このような「学」の一つとして立てられるものである。
    「雑草学」の営みは,「己の理解」の営みである。


    2. 存在論

    「学」は,混沌の整理整頓である。
    混沌に類の区画を入れ,類の関係性 (特に,階層) を立てる。
    「言語」は,この整理整頓に対応する。

    類は,実在ではない。
    人が立てる存在である。

    類が立てられると,実在は「類の個別現象」と捉えられるものになる。
    こうして,類に本質存在を見るようになる。
    存在の位相が逆転させられるわけである。
    これが,プラトンの「イデア」である。
    西洋的「学」はこの方法論で営まれてきた。


    雑草の名前は,類の名である。
    類は,実在ではない。
    便利から「ヒメムカシヨモギの花」と言うが,「ヒメムカシヨモギの花」というものが存在するわけではない。
    存在するのは,「ヒメムカシヨモギ」に括られる個体の花である。
    これらの花の共通性を立てようとすれば,それは「花」ではなくなる。
    「生成メカニズム」とか「構造」のことばで記述するようなものになる。
    「生成メカニズム」や「構造」を語れば,それは「花」という画定を超える。
    実際,行き着くところは「DNA」である。

    「花」は,日常語に存在する。
    DNA を語る言語レベルでは,存在しない。

    これは,「花」は非科学だということではない。
    「花」を理解することは,言語レベルを理解することである。
    そして,この理解の営みは,科学である。

    翻って,言語学のたしなみのない者は,ほんとうのところ,科学ができない。
    言語学は, 「学」の方法論的基礎学である。


    3. 「晴耕雨読」

    「雑草学」は,混沌の整理整頓である。
    この作業は,つぎの2つで成る:
    1. 混沌の中に分け入って,標本を採取する
    2. 採取した標本を分析し,類を立てる
    前者は,「フィールドワーク」である。
    後者は,「デスクワーク」である。

    フィールドワークとデスクワークの棲み分けは,「晴耕雨読」である。
    北海道だと,さらに「シーズン」がある。
    春・夏・秋は,フィールドワークのシーズンである。( 『北海道の雑草』)
    冬は,デスクワークのシーズンである。


    4. カラダづくり

    混沌の整理整頓は,混沌の整理整頓ができるということである。
    混沌の整理整頓ができるとは,混沌の整理整頓ができるカラダをつくっているということである。
    このカラダづくりは,鍛錬である。
    修行である。

    なぜ「鍛錬・修行」か?
    カラダは,自分でつくるしかないからである。
    カラダは,「教育」でひとにつくってもらえるものではない。

    カラダづくりは,時間がかかる。
    この時間を,<苦労>にしてはならない。
    この時間は,<充実>とするものである。

    点描で大画面の絵をつくる画家は,そのプロセスを苦労にしているわけではない。
    「学」は,この営みである。

    翻って,成果の短期回収に焦る者は,「学」を知らない者・わかっていない者である。