Up | 「雑草が見える」: 要旨 | 作成: 2015-06-23 更新: 2015-06-23 |
「雑草」のことばを用いるようになるとき,「雑草」の先は,実際見えないことになる。 網膜に光の刺激が届いていることは,「見る」とは違う。 「見る」は,脳の機能である。 「雑草」のことばを用いるということは,脳を「雑草」の先を見ない脳にするということである。 《「雑草」のことばを以て「雑草」の先を見ないで済ませる》の意味は,<省力>である。 「雑草」の先を見るためには,学習が必要になる。 「雑草」のことばは,この学習を無用とするためのものである。 「見る」は,学習のたまものである。 網膜に届く光の刺激に脳が存在を対応させて,「見る」になる。 そして,網膜に届く光の刺激と存在の対応をつくるのは,学習である。 コウモリは,超音波を発し,それが物にあたって返ってくるエコーで,物を認知する。 この器官を,いま自分が手に入れたとしよう。 さて,自分はこの器官で物を認知できるか? できない。 ノイズの氾濫の中に無力に佇むのみである。 ノイズと存在の対応の構築が,必要なのである。 この構築は,学習である。 学習するのは,脳である。 「見る」は,<学習する脳>が実現しているものである。 生まれてばかりの赤ん坊は,コウモリの器官を急に与えられた自分と同じである。 「見る」は,生まれてからずっと脳によって作業されている。 「雑草」の先が見える,即ち「雑草が見える」は,学習がこれを実現する。 ノイズと存在の対応の学習である。 中身は,赤ん坊の脳がする「世界構築」と同じである。 |