|
高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.19,20.
‥‥‥蝦夷地で活動した飛騨屋の関係者が書いたと推定される「蝦夷国私記」に
|
其時 (松前氏福山移居の時) わ公儀の勤もなく、諸国の船も不レ参、漸南部津軽ゟ商人舟一・二船宛参り、當時之様に人家もなく、漁師斗少々有レ之故に、船々入津致候ても船問屋と云事もなく、家老・用人の家に出入杯し、寝泊りを致し、商ひ済、帰帆する事なれば、至て聊なる事也。
其後御当家(徳川家)天下治り、降参せられて、蝦夷大王となり、段々船々多く入込み、人家も年々に相増し候事也。
併し蝦夷地わむかしより今に至る迄、山谷ばかりにて田畑と言事なく、諸年貢不レ納、武家にて漁を致し、又小商ひを致して暮けるが、段々と繁昌し、他国より出店杯いたし、日増に賑ひ、夫に准じ城下のやうに相成、家老・用人船問屋を止め、蝦夷地へ交易を始め、夫ゟ漸く又武家の形に成たる国なり。
|
と書いている。
|
|
|
高倉新一郎『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
pp.21-23.
蝦夷の保護と船役の徴集はすでに天文十九年(一五五○) 慶廣の父一李廣が、従来争を続けていた蝦夷と和睦し、瀬田内 (今日の瀬棚郡) のハシタインを上ノ国天河地方に置いて西夷の酋長とし、知内のチコモタインを東夷の酋長とし、諸国から来る商人からとった税金を両酋長に配分していた。‥‥‥
和人と蝦夷との交易は、松前城下でウイマムの形式で行われるものの外、本州からの商船が蝦夷の居住地に赴いて交易したことがあったと思われる。‥‥‥
しかし松前藩が成立した後は、藩が幕府から受けた制書によって、商人の蝦夷接触は藩の許可にのみよって行われることになった。
|
|
|