Up | 「同族=洗脳されたる者」 | 作成: 2016-12-12 更新: 2016-12-12 |
『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.75-94.
<情況>へのアイヌの適応行動は,《アイヌ文化を捨て和人文化をとる》であった。 ちょんまげ・着物を捨て,散切り頭・洋服をとるようにである。 ちょんまげ・着物を捨て, 西洋文化が自分を映す鏡になる。 自分の像を見て,自分が遅れていると思う。 そして,自分は「西洋化」を以て変わらねばならないと思う。 この思いが,ちょんまげ・着物を捨て,散切り頭・洋服をとるようにさせるものである。 この者の<ちょんまげ・着物を捨てる>は,<ちょんまげ・着物を「断念」する>ではない。 <ちょんまげ・着物を捨てる>の感情は,「深い悲しみ」ではない。 この者は,<変わる>を自分が確かに実践できていることを「喜ぶ」者になる。 貝沢正の父・祖父母にとって,和人は自分を映す鏡になる。 自分の像を見て,自分が遅れていると思う。 そして,自分は「日本化」を以て変わらねばならないと思う。 「幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。‥‥‥母の実家でコタンピラ老夫妻からきいた「日本のおとぎばなし」を、帰ってから父方の祖父母に日本語で聞かせる。大喜びの二人にうながされるままに、一晩に同じお話をくりかえし‥‥‥」 「大喜び」は,その通りである。──偽りではない。 本多勝一にとって「アイヌ」は,「憐れむべき者」である。 本多勝一は,アイヌを憐れむ。 <憐れむ>は,<見下す>である。 本多勝一は,アイヌを見下す。 貝沢正の父・祖父母を憐れむ本多勝一は,貝沢正の父・祖父母を見下す者である。 本多勝一は,ひとを<主体>として見るという視座を知らない。 本多勝一にとって,ひとは,<正しい考え>になかなか至れない愚かな存在である。 一方,自分は,<正しい考え>をもつ者である。 こうして,本多勝一がひとを見るとき,それは<見下す>になるわけである。 本多勝一が「貝沢正」を題材にする仕方も,これである。 本多勝一が「貝沢正」を題材にしてすることは,貝沢正を素材にして<正しい考え>──即ち,自分──を示すことである。 実際,貝沢正は,本多勝一のよき生徒である。 貝沢正は,本多勝一が自分について書いたものを,裏切らないよう生きねばならない者になる。 貝沢正は,自分の父に対する本多勝一の見方
「洗脳」されたのは,貝沢正である。 そして,本多勝一も,「洗脳」された者である。──<正しい考え>に。 |