アイヌは,終焉した。
"アイヌ" は,アイヌではない。
よって,"アイヌ" は,アイヌのふりをする者である。
"アイヌ" は,アイヌのふりにひとが騙されることによって可能となる存在である。
「アイヌのふり」のパフォーマンスは,形装・演技・工芸である。
そしてそれらを生業にした "アイヌ" がいる。
観光"アイヌ" である。
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貝澤藤蔵 (1931), p.375
内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。
折襟にロイド眼鏡を掛けた鬚武者の私が、毎日駅に参観者の出迎へに出ると、始めて北海道に来た人々は、近代的服装をしたアイヌ青年を其れと知る由もなく、私に色々な質問をされます。
内地でも片田舎の小学校の先生かも知れません其人に、「アイヌ人に日本語が分りますか?何を食べて居りますか?」と質された時、私は呆れて其人の顔を見るより、此人が学校の先生かと思ふと泣きたい様な気分になりました。
「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
否々其ればかりではなく、時偶内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。
之じゃ何時迄経っても内地に居られる人々は熊とアイヌ人とを結び付けて考へるだけであって、真に時代に目覚めたアイヌ人の姿を見、其の叫ぴを聞き得ない訳であります。
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砂沢クラ (1983), pp.297-299
私たちが芦別の川岸に住むようになってからも、旭川の川村の兄 (カ子トアイヌ) は、いつも私たちのことを気にかけ、何かあるたびに「来ないか」と声をかけてくれました。
川村の兄や旭川の親せきと一緒に神居古漬や勇駒別温泉 (現在の旭岳温泉)、層雲峡、天人峡、白金温泉などの観光地へ招かれて行き、カムイノミ (神への祈り) やウポポ (輪踊り) をするのです。
思いきり跳ねて踊って、夜はおいしいごちそうを食べながら、なつかしい人といろいろ話が出来て、それだけでもうれしいのに、川村の兄は、いつも、みなに渡す金以外に一万とか二万とかの金を私のふところに入れてくれるのです。
ほんとうにいい兄でした。
‥‥
私たちが川岸に暮らすようになってから、芦別でも冬まつりをするようになり、川村の兄が親せきを連れてきて、町の広場でクマ送りをするようになりました。
四、五年は続いた、と思います。
クマ送りでは夫が一切の指図をし、カムイノミもやりました。
‥‥
クマ送りでは、夫も息子も、私が作ったアイヌのコソンテ(立派な着物)や陣羽織を着ました。
とてもきれいに出来ていたので、息子など何人もの人から「ちょっと貸せ」「おれにも着させろ」と言われて、着たり脱いだりしていました。
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同上, pp.306,307
アイヌ祭りの次の年 (昭和四十年) には川村の兄 (カ子トアイヌ) に誘われて、兄の妹たちなど十何人でシサム (和人) の都・東京へ行きました。
兄の妹のヨネさんがムックル (舌琴) を吹き、私がイフンケ (子守歌) を演じ、みなでウポポ (輪踊り) をして見せたのです。
‥‥
私が演じたイフンケは母のムイサシマットから習った歌で「なぜ泣くの お前のお父さんは有名なコタンコロクルだけど 女の子を七人持ったのに 男の子は一人も生まれなかった 私は一番身分のいやしい女中だが コタンコロクルの子孫のおまえを生んだ‥‥」という内容で、人形の赤ん坊をおぶって舞台の端から端まで歩くのです。
この次の年には九州を十一日間で回り、別府まで行きました。
兄は帰る時になると、私に、上等の酒やら菓子やら背負わせ、そのうえ、みなに払った金のほかに何万も余計にふところに入れてくれるのです。
周りの人が「あの二人は何かあるのでは」とうわさするほど、私を大切にしてくれました。
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同上, p.327
昭和四十四年の春、川村の兄 (カ子トアイヌ) から「妹のコヨが入院した。白老へ行って面倒を見てやってくれないか」と頼まれました。
私とコヨちゃんとは、ほんとうの姉妹のように育ち、娘時代は何をするのも一緒。
頓別の鉄道工事の出面に行った時も、夜は二人で抱っこして寝たのです。
コヨちゃんの夫は三年前に亡くなっていたので、息子が店員を六人使ってみやげ店を出していました。
白老の観光地では、駅から歩いてきた観光客が二列に並んだみやげ店の間を通り、その奥に建っているアイヌのチセ (家) を見て帰るのです。
私はコヨちゃんの息子の店の前でイテセ (ゴザ編み) をし、座ぶとんぐらいの大きさのチタラベ (花ゴザ) を編んで売りました。
このころはイテセを見せる店などなかったので、客が喜んで店の前に真っ黒に集まり、たくさん金が入りました。
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同上, pp.330,331
白老に行った次の年 (昭和四十五年) の夏、川村の兄 (カ子トアイヌ) たちと白金温泉 (上川管内美瑛町) に行った時のことです。
兄に「九州から四百人の客が来ている。ユーカラをしてくれ」と言われました。
二年前に外国人学者の前でユーカラを演じた時は節なしでしたし、前の年に森竹竹市さんに頼まれてポロトコタンで演じた時は、チセ (家) の中で二、三十人の客に囲まれてやったのです。
こんどは、外に火をたいて、何百人の客に取り固まれてやる、と一言うのです。
「出来ない。いやだ」と断ると、兄は「おまえは、おまえの母親がここまで伝えてきたユーカラを受け継がないのか」と怒ります。
仕方がないので、母も演じ、夫からも教えられた「アトゥイヤコタンで戦うポイヤウンペ」を演じました。
たき火が煙いやら、恥ずかしいやら。
幸い夜で、客の顔が見えないので、たき火の火ばかり見ながら夢中で演じ、やっと終わると、お客さんが私を取り巻き、つぎつぎと手を取り、「ありがとう、ありがとう」と喜んでくれました。
お客さんは喜んでくれましたが、一緒に行ったアイヌはあまり喜んで聞かないのです。
「名寄のヤンパヌおばさんは声がよかった」などと言うのです。
ユーカラは声だけを聞くのでなく、歌われている内容が大事なのです。
ユーカラの言葉がわからない人が多くなって、声だけ聞くようになった、と思います。
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鳩沢佐美夫 (1970), pp.184,185
僕は、過去三年間、調査とまではいかないが、道南を中心にしたA湖畔、B温泉、Cアイヌ部落と足を運んでみた。
その結果ね、この現状では、やがて観光アイヌというものも和人に凌駕されてしまうな、という気を強くした。
なぜね、"人聞のオリ" などという奇妙な施設のある熊牧場に、アイヌ村が必要なのかね。
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それとA湖畔では、言語や動作に、明らかにアル中症状を現わしているような男が酋長格で控えていたり。
また、五十四、五歳の男が、観光団に何かを訊かれると空っとぼけていて、カメラを向けられると、チャッカリ、モデル代を要求する (Cアイヌ部落)──ね。
それと、漫談調で「俺の腕毛を一本十円で売ってやる」と、ガメツそうな年若い解説者もいたしね (Cアイヌ部落) ──。
僕のおふくろね、一度だけA湖畔の見世物小屋に駆り出されたことがあるんだ。
そのとき、一緒に行った人たちが "豊年踊り" とかいって奇妙な踊りを始めたそうだ。
怪訝に思ったおふくろはね、「どこにこのような踊りがあるんだ?」とたずねた。
ね、すると、「エバタイシサンアトヘマンタエラマンワ、オカンキロアキロ (馬鹿な和人たち、何かわかるものでもあるまいに、適当にやりゃいい) ──と、連れていってくれた、専業の人に言われたという──。
万事この調子じゃね、アイヌ模様の着物さえ着りゃ誰だっていいってことだ。
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同上, pp.187,188
で、そういったことでさ、この町 [平取町] 内のとある地区 [二風谷] がね、今、着々とそのアイヌ観光地として売り出そうとしているんだ。
なんかね、とうとう──来るべきところまで来たっていう感じなんだ。
昭和三十五年に、そのいわゆる "旧土人環境改善策" なるものを打ち出さなければならないんだ、という、不良環境のモデル地区、ね、写真入りで新聞に報道されたりした地域だ。──
最近では、公営住宅や、またそれぞれの努力などで、十年前の家庭はほとんど姿を消してしまった。
が、その生まれ変わったはずの聚落が、今度は俗悪なアイヌ部落の亜流化をくみとろうとしている!──。
なぜ、景勝や古蹟の乏しい山林に、こういった特殊施設を、アイヌ自ら、しかも今日の時点において作ろうとするのかね──。
そのことを彼たちに質すと、「アイヌがやらなければ、悪質なシャモ (和人) が勝手にアイヌの名をかたり、金儲けをするから」と言う。
「じゃ、そういう悪質シャモの排除にこそ努めるべきでないか?」ときくと、「われわれも、そのことで潤っている」──。
つまり、観光のおかげで部落もよくなり、業者からピアノも贈られた (小学校)。
何十万とかの寄付もあった──と、並ベたてられる。
「今それをやめろというのなら、じゃわれわれの生活をどう保障する」と逆襲さえしてくる始末。
そして、ね、これまで自分たちは観光業者に利用されて各観光地に立っていた。
だから、どうせやるんなら、そんな他所の土地で、シャモに利用されるんでなく、自分たちの部落でやったほうがいいのだ──という割切り方。
しかもだよ、ジョークなのか、アレゴリーなのか、昔はアイヌといって、われわれはバカにされた。
今度はひとつ、われわれアイヌを見にくるシャモどもをふんだまかして、うんと金をまきあげてやる。
「なあに、適当なことをやって見せれば、喜んで金を置いていくからな」‥‥‥。
ね、ドライというか、くそくらえバイタリティというか、とにかく、見上げたショーマンイズム──。
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同上, p.207
<とにかく、全道のアイヌと熊、このイメージ化は、あまりにもひどすぎる。
温泉地へ行ってもアイヌ──。
湖水を訪れてもアイヌ、ね。
はなはだしいのは、一ホテル (G地) の前にもアイヌ小屋だ。
そういう所へ、「何もわからなくてもいい。ただ坐っていりゃいいんだ──」と、アイヌたちが募集されて行く──。
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観光"アイヌ" は,ひとに「アイヌ」と思わせることができる "アイヌ" である。
こういうわけで,"アイヌ" 進化は,観光"アイヌ" がベースになってきた。
そして,各種 "アイヌ" の降板を経ていま,"アイヌ" ははっきり観光"アイヌ" のことになった。
──法人付きと自営の二種。
引用文献
- 貝澤藤蔵 (1931) :『アイヌの叫ぴ』, 1931
所収 : 小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998, pp.373-389.
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983.
- 鳩沢佐美夫 (1970) :「対談・アイヌ」,『日高文芸』, 第6号, 1970.
『沙流川─鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995. pp.153-215.
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