Up 表現者は,ことば狩り・言論封じにどう対するか : 要旨 作成: 2016-06-14
更新: 2017-01-10


    表現者・科学者・自由主義者は,自分がまっとうとする言を吐く。
    自分がまっとうとする言説をつくる。
    こうすることが,表現者・科学者・自由主義者の務めである。
    実際,自分がまっとうとする言を吐かず,自分がまっとうとする言説をつくらず,替わりに人権イデオロギーに迎合した言を吐く,人権イデオロギーに迎合した言説をつくるというのは,自分の務めの放棄である。

    よって,人の生態系における<表現・科学・自由主義と人権イデオロギーの共生>は,ことばのテクニックの問題ではないことになる。
    そこで,《人権イデオロギーはなぜ表現を攻撃するのか》という根本的なところから考える必要がある。


    攻撃するのは,相手を<矯正されるべき者>,<正しく更生すべき者>と思うからである。
    しかし,相手は矯正されようとはせず,正しく更生しようとしない。
    この先は,「これはどうしようもない害虫だ」「みんなでやっつけてしまえ」となるしかない。

    この思考回路の要点は,みんなが自分と同じだと思っているところである。
    実際,《みんなが自分と同じ》の思いこそが,人権イデオロギーのいちばんの特徴となるものである。
    上の弾劾文をつくった者は,これを読めばみんなが自分と同じように憤慨すると思っているわけである。

    人権イデオロギーで立った国は,思想矯正施設をつくる。
    これを「思想犯の強制収容所」と捉えるのは,自由主義に染まった者のすることである。
    人権イデオロギーの者にとって,これは正義の施設である。
    人権イデオロギーは,《みんなが自分と同じ》の考え方をする。
    そこで,自分と同じでない者は,変に育ってしまった者ということになる。
    よって,教育で矯正し,正しく更生させねばならない,となる。
    こうして「強制収容所」送りとなるわけである。
    そしてこれで矯正のならない者は,処分となる。
    人権イデオロギーにとって,これはすべて正義の執行である。


    権力を握った人権イデオロギーは「ろくでもない言を吐く者」を一般大衆レベルでも処分するが,自由主義の国の人権イデオロギーだと,攻撃も費用対効果比を考えてやるものになる。
    ろくでもない言を吐くがどうでもいい者,どうしようもない者は相手にしない。
    そこで,人権イデオロギーと共生する形は,人権イデオロギーの目につぎのように映る者でいることである:
      「ろくでもない言を吐くが,どうでもいい者」
      「ろくでもない言を吐くが,どうしようもない者」
    だめなのは,人権イデオロギーの目につぎのように映ることである:
      「教育によって,矯正することができる者」
      「教育によって,正しく更生することになる者」

    熊には,背中を見せてはならない。
    背中を見せると,攻撃される。
    人権イデオロギーには,へこんではならない。
    へこむと,攻撃される。
    へこむと,人権イデオロギーにとって「教育によって,矯正することができる者」「教育によって,正しく更生することになる者」ということになり,人権イデオロギーをさらに図に乗せることになるからである。

    表現・科学・自由主義と人権イデオロギーの共生の要諦は,<距離を保つ>である。
    <接近を避ける>である。
    接近に対しては<(かわ)す>である。