Up 「時代の変化」──生態系の遷移 : 要旨 作成: 2016-06-01
更新: 2016-06-01


    系は,遷移する。
    生態系は,遷移する。
    遷移は,生態系の含意 (「必要条件」) である。
    エコロジストの唱える「生態系保全」は,論理矛楯である。

    「生態系の遷移」の内容のうちに,個ないし種の布置・構成の遷移がある。
    この遷移は,個ないし種の間の優勢・劣勢の遷移である。
    特に,優占種・絶滅種が現象する。


    狩猟採集種の地に,耕牧種が加わる。
    つぎに,商品経済種が加わる。
    これらの種の共存は,「勢力関係」を現す。
    そしてこの勢力関係は,遷移する。

    商品経済は,耕牧を商品の耕牧に変えていく。
    狩猟採集を商品の狩猟採集に変えていく。
    売るために耕牧し,売るために狩猟採集する。

    耕牧・狩猟採集が商品の耕牧・狩猟採集になるとは,耕牧・狩猟採集の意味が「自分の消費」ではなくなるということである。
    自分の消費でなくなるとき,「いくらでも多く」が成立する。
    こうして,耕牧・狩猟採集は,拡大に進む。
    耕牧は,土地占有の拡大を開始する。
    狩猟採集は,乱獲を開始する。

    さらに,商品経済は,耕牧・狩猟採集を「企業 (会社経営)」にできる。
    被雇用者は,耕牧種・狩猟採集種の両方から出てくる。
    耕牧は楽ではない。そして不安定である。
    こうして,狩猟採集種のうちから,狩猟採集をやめ企業に雇用されることを選ぶ者が出てくる。
    狩猟採集は楽ではない。そして不安定である。
    また,耕牧の土地占有拡大は,狩猟採集を圧迫していく。
    こうして,狩猟採集種のうちから,狩猟採集をやめ企業に雇用されることを選ぶ者が出てくる。


    この遷移で,狩猟採集種が絶滅危惧種になった。
    ひとは,<絶滅>に対しては危惧を開始する。
    これまで自分の都合で考え,扱ってきた動植物を,いざ絶滅しそうとなると急に心配し出す。

    こうして,絶滅危惧種になった狩猟採集種に,保護が考えられることになる。
    これが,『北海道旧土人保護法』(1899) である。

    しかし,「保護」は,これを行う者の自分勝手な思いである。
    トキの保護は,トキ自身にとってはありがたくもなんともない。
    「保護」は,これを行う者の自己満足である。

    実際,絶滅への歩みをはっきり示し出した種に対し「保護」を措置すると,事態が却って悪くなる。
    トキの保護は,トキの檻をつくって,ここに収容することである。
    狩猟採集種保護も,これと同型になる。
    「保護」の施策は,《開拓地を与え耕作民にする》になる。
    そしてこの中身は,「荒れ地・ぼろ家への強制移住」となる。

     参考 : 砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
      pp.67-69 (「和人に土地を追われる」),
      pp.72-74 (「マサ小屋で次々死ぬ」)

    この施策は,「同化」の施策である。
    実際,「保護」施策は,「同化」施策である他ない。
    《保護区を措置し,狩猟採集生活を保全する》のストーリーは立たない。
    商品経済と狩猟採集生活は,共存しないのである。
    狩猟生活種は,狩猟採集生活をやめて商品経済に入っていく。
    この流れは,商品経済の進展と合わさって加速し,螺旋的進行を終局相にして,最後は狩猟採集生活があっという間に消滅する。

     強調 : 商品経済と狩猟採集生活は共存しない
    ──アイヌイデオロギーの者は,この科学が通じない者たちである。


    系の遷移は,系の安定相の逐次実現である。
    絶滅種の現象は,系の安定相の実現である。
    これをどうにかしようとするのは,無理をすることであり,系を歪め,事態をおかしくする。

    「同化」は,行うことではない。
    自ずと起こるというものである。
    ──「適応」が,このときのメカニズムである。

    商品経済と隣り合うことになった狩猟採集種は,商品経済に飲み込まれ自然消滅するのが定めである。
    北海道以外の地では,狩猟採集種 ( アイヌの遺伝的交流) の「保護」は問題にならなかった。
    よって,狩猟採集種の消滅のことで民族イデオロギーは生じていない。
    同情は,自己満足であり,(あだ)となるのみである。
    系の遷移に対する作為は,癌を生む。
    民族イデオロギーは,癌である。

    いまのアイヌ政策のデタラメは,系の遷移に対し作為したことのバチである。
    このデタラメは,バチとして容認するのみである。
    バチとして受け入れるとき,これは教訓になる:
      教訓 :「保護は自己満足であり,仇となるのみであり,癌を生む」