Up 名前 : 要旨 作成: 2016-12-28
更新: 2016-12-28


     萱野茂 (本多勝一『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.214-216) :
     
     二風谷の地域内、仮に幅2キロ長さ7キロの内側にアイヌ語の地名がどのぐらいあるかといいますと、沙流(サル)川左岸に 50 カ所、沙流川右岸に 23 カ所であります。
    ‥‥‥左岸のほうを言いますと、
       ぺンケトコム・トコムウトルクシポンナイ・パンケトコム・ニプタイ・フレナイ・キニプタイ・モシリ・ケナシ・ケナシパオマナイ・トイピラ・シケレぺ・ルウェペロ・ヌペサンケ・ユオイ・ポロモイ・ニナラカ・リクンニナラカ・ポンオサッ・アシリピパウシ・リエプイ・オサッ・ホアフンケイ・ルペシポンナイ・オケネウシ・オサヌシ・ポンニナラカ・コケラ・ピパウシ・フシコナイ・フシココタン・タナッシリ・マカウシコケラ・マカウシ・マカウシソ・トンニタイ・カンカン・カンカンソ・サイコプ・イウォロオマプ・エサオマカンカン・オマンルパラ・シラッチセ・シラッチセチャシ・ポンカンカン・カンカンプトフ・ポンカンカンチャシ・コトコトキ・チャシコッ・ピラチミプ・二ナチミプ。
    ここまでは沙流川左岸二風谷地区内 50 カ所。

     これから、沙流川右岸へ渡り平取のほうへ下っていきます。
       オポウシナイ・ソカオマプ・オプシヌプリ・ヌプリラ・ヤイニタイ・タイケシ・スルクウンコッ・クルマツオマナイ・ルオマナイ・オクマウシ・ヌタッケシ・ウカエロシキ・ペウレプウッカ・学田。
    これらの中で日本語であるのが学田だけ、これは明治になってから二風谷共同用地として使われたんで、その名前が残っております。
       ピンニ・オプシピラ・ヤラチセウンナイ・タユシナイ・ウェンナイ・ピラチミナイ・ぺンケオユンぺ・パンケウユンペ・ヌプリケシ。
    ここまで沙流川右岸 23 カ所、両方で 73 カ所になります。

    ‥‥‥ このように、なぜアイヌが自分たちが生活している範囲に丁寧に名前をつけたかといえば、狩猟民族であったからであります。
    たとえば狩りに山へ行き、シカをとり、あるいはクマをとった場合、それらの肉を一人で背負って帰ることができないときに、一家族や村人に肉を取りに山へ行かせます。
    そのときに、どの沢のどの台地に肉を置いてきたかをはっきり教えなければ、肉のあるところへ家族や村人は行くこと、ができないのであります。
    そのような理由から、アイヌたちは自分たちの行動範囲に、まるで自分のたなごころを指すかのように名前をつけ、それを若者たちに教え、その地名を覚えることが狩猟民族の心得の第一歩であったのであります。

     そのようなわけで、この狭い二風谷の中にこんなにたくさんの地名が残っていたのであり、大正15年生まれの私でさえこれほど記憶していたのですから、忘れ去られた地名がどのぐらいあったものか、いまでは想像もつきません。

     Batchelor, John, "The Ainu and Their Folk-Lore" (1901)
    安田一郎訳, 『アイヌの伝承と民俗』, 青土社, 1995.
     
    pp.214-217
     この世に生まれた子供にとって解決すべきつぎの大きな問題は、その固有名詞を見つけることである。 しかしこの固有名詞を選ぶのはきわめてむずかしいことが多い。 ‥‥‥
     (1) どんな人も死んだ人の名前をつけてはならない。‥‥‥
     (2) 名前自体が、人によっては幸運か、不運だと考えられるし、場合によっては人に幸運か、不運をもたらすと考えられている。‥‥‥
     (3) ‥‥‥彼は生きている隣人の名前をつけてはならない。‥‥‥
     (4) また名前はよい響きとよい意味をもたなければならない。 ‥‥‥
     しかし私が命名について言ったことから、アイヌはみなその子供たちを命名するにあたって慎重だと考えてはならない。‥‥‥
    ピラトリのベンリ村長は、この点について偉大な違反者である。
    彼はアイヌにとってさえも、例外的に卑猥な老人である。
    もちろん彼は、他人についている名前か、つけられた名前をすべて避けている。
    しかし彼は、「壷」、「釜」、「箸」、「煤のような」、「汚れた」などのような名前や、その他に私がここで挙げることができない多くの名前をつけるのが非常に好きだ。 ‥‥‥
     アイヌの子供は、二、三歳になるまで命名が行われない。
    両親は性格のある特徴があらわれるか、あるいはその子がある特別の行為をするまで待つ。
    pp.219-221
    ‥‥‥配偶者の名前を言うことは、女にとっては非常に不幸で、また最大に失礼なことと見られている‥‥‥
    名前を言うことは、家族に不幸をもたらすと考えられている。 ‥‥‥
    夫が自分の妻を名前で呼ぶ声や、夫が他人に自分の妻のことを名前で言う声が、たえず聞かれるかもしれないが、そうすることは無作法だと考えられている。 ‥‥‥
     男が自分の妻のことを、妻が自分の夫のことを、どちらかの死後に言う必要がときどきある。
    しかしどんな場合にも、死んだ人の名前を発音してはならない。
    pp.221,222
    一人のアイヌがその問題を扱ったつぎの民間伝承を私に話してくれた。
    彼は言う。
     「 神々を礼拝することが、男たちの特別の職務です。
    他方、女たちは祈ることを引き受けてはなりません。
    人が病気のとき、その病人が年を取っているか、若いか、男か、女かは問題ではなく、男たちは祈りのことばで神々に間違いなく近づかねばなりません。
    夫は家の長です。
    聖なるものの助けが必要なときには、それに近づくのは夫です。
    だから、妻は夫を大いに尊敬して扱わねばなりませんし、高い名誉のなかに彼をずっとおかなければなりません。
    妻は夫の名前を不注意に言ってはなりません。
    というのは、夫は実際に妻の支配者であり、上司だからです。
     さらにまた、妻は夫の名前を公言してはなりません。
    というのは、それを大声で言うだけでも、夫を殺すのと同じだからです。
    というのは、それは確実に夫の生命を奪い去るからです。
    だから、女たちはこの問題では非常に慎重にすべきです。
     この教えは、神聖なアイオイナから伝わりました。
    だから厳格に守るべきです。
    それゆえ、もし妻が、夫の名前を口にして夫の名誉を傷つけているなら、それは夫に失礼であるだけでなく、神々にとって失礼であり、不敬であることをその女に知らせましょう。
    この命令をすべての人に守らせましょう」。