Up 道路開鑿 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-14


      吉田常吉 (1962), p.299
    さて幕府は東蝦夷地を直轄すると、南部から杣人や人夫を募って、礼文華山道 (長万部・虻田間)、様似山道 (様似・幌泉間)、猿留(さるる)山道(幌泉・鐚田貫(ビタタヌンケ)間)、釧路・仙鳳趾間の道路を開撃した。
    これらの道路はみな工事を急いだので完全とはいえなかったが、寛政十一年の秋には、様似から釧路まで馬が通る道ができ、その後次第に修築して、東海岸一帯は悪天候でも安全に交通ができるようになった。
    こうして従来択捉に行くのに、福山から約三百里、箱館から二百七十里といわれていたのが、享和三年(1803) には箱館から二百三十四里余に短縮された。

      同上, pp.300,301
    文化四年幕府がさらに西蝦夷地をも直轄するようになると、東西蝦夷地をつなぐ道路が開墾された。
    東蝦夷地の勇仏から勇仏川を溯ってビビに上陸し、陸行二里で千歳に出て、そこからまた千歳川・石狩川を下って西蝦夷地の日本海岸の要衝石狩に至る千歳越三十二里の道程が通じた。
    この内、ビビ・千歳間は文化中に修築して車馬を通ずることができるようになった。
    その他はみな舟行ができたので船が整備され、千歳・漁・江別などに旅宿所が設けられた。
    また西蝦夷地では、石狩から以北には雄冬の難所があったので、それを避けるため、石狩川上流の雨龍(うりゅう)川を溯って留萌(るもえ)場所に出る雨龍越が開かれた。
    同じく西蝦夷地のオホーツク海岸の網走へは、東蝦夷地の庶路川を溯り、舌辛太(したからぷと)・阿寒を経て網走川に沿って下り、新栗履にくりばけ(ルビ)に出る網走越や、またオホーツク海岸の要衝斜里へは、根室場所の標津川を溯って北に折れ、ルチシ嶺・ワツカオイを経て斜里に出る斜里越が開かれた。
    このほか岩内・余市間の山道も開鑿され、海路神威岬の難所を迂回せずに奥地に入ることができるようになった。


    引用文献
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.