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高倉新一郎 (1959), pp.65-68
宝暦八年(1758) の著にかかる「津軽記聞」によれば
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蝦夷へ代物かへに行船々、折よき時は十増倍にもなり、若しあしき折には一ばいにもなりかぬる。
誠に此方の子供の知慧にも劣りおろかなるゆえ、換へ事の分量もまたきまりなし」
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といい、蝦夷交易船は危険が多い仕事であっただけに、それを請負う商人はその危険を無智で抵抗力を失った蝦夷に負わせようとしたのは当然であった。
例えば寛政十年(1798) 宗谷で蝦夷交易を見た幕吏はその日記に
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夷人より昆布三尺縄にて一丸にからげたるを二把差出したれば、親腕に冷飯一盃と取かえたるを見たり。
鮭・鱈・鰊類もこのふり合也。
甚不都合の交易というべし。
これは当所にも限らず、夷地一体この通り也という」
(武藤勘蔵蝦夷日記)
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といっている。
水戸落の快風丸が元禄元年(1688) 石狩に来た時は玄米一斗二升入一俵で生鮭百尾と交換し、それがその当時の常法であったといわれているのに、宝暦 [1751-1764] 頃には一俵が八升入となり、しかも交換する鮭は一俵に付五束すなわち百尾だった。
寛政元年(1789) 国後・目梨の蝦夷乱の原因の一つは、天明の飢饉によってこの一俵が三升入となったことにあったといわれている。
交易物資にも、和人がもたらすものには偽瞞があった。
米についで重要な交易品であった酒にしても、
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「酒は秋田の大山という所より造り出し、弐斗樽と申て一斗四升位有。」
「其酒一体生酒にて色赤く、夫へ水を調合致すなり」
(蝦夷国私記)
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といっている。
まして蝦夷が珍重した宝物類は、多く我が国の古道具であったが、金蒔絵と称して金紙を貼ったもの、金属製と称して木に薄板を貼付けたもの等が多かった。
蝦夷はこれらのものを交換し、価値の蓄積にあて、飢僅の時は食料や漁場を買求め、罪を冒した時はこれを償に出して生命を助かることが出来たのだが、それが往々にして無価値の模造品にかえられてしまったのである。
「蝦夷拾遺」はアイヌが最も珍重した鍬先のことをのべて、
「 |
思に昔の商人、甲の鍬形を武士の頭にいただく貴宝なりと教え、売て高利を取、名も鍬先と付たるなるべし、‥‥‥其器各不レ同、頗る鍬形に似て、新きは木を以て作り銀を以て文を置る物多し」
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といっている。
又蝦夷は、交易した衣装を自慢で酒盛の場所などに着て行くのであるが、それについても、江戸屋敷の奥女中の着古しなどの惣模様、金糸入など派手なものを仕入れて、裏へ桃色木綿などを付け、小袖のように仕立て、又祭衣裳など立派に見えるのを求め、蝦夷地へ持って行って交易をする際
「 |
風呂敷へ包、少し見せて隠し置を、蝦夷人見て結構なる品に見ゆる故、至て好品々、交易の品を持来りけるを、中々夫斗りにては取替申かたしと段々品を増し、漸交易」
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するのだと「蝦夷国私記」は語っている。
詐欺は盗みにひとしいところまで来ていた。‥‥
天明四年(1784) の「東遊記」にも
「 |
此方より渡る船方の者ども、物のわきまへもなきむくつけきものなれば、ひとえに愚なりとのみ覚えて、偽りかすむる事大方ならず」
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といっている。
こうして蝦夷は貧窮化して行って、
新しい技術が入れられても、これを自らの力で採用して行くことが出来ず、
資材の前貸しを受けて産物全部を請負人に納めて差引勘定を受ける半雇用人、
もしくは全く請負人の指図のままに働いて労賃を受ける雇用人
となり、その独立を失ってしまうのであった。
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引用文献
- 津軽藩 (1731) :『津軽一統志』「巻第十」, 1731
- 北海道(編)『新北海道史 第7巻 史料1』, 北海道, 1969. pp.83-200.
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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