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高倉新一郎 (1959), pp.54-57
鷹場及び砂金掘りが衰えた後、蝦夷地に発達した産業は漁業の外に伐木がある。
北海道の伐木は今日でも檜山の地名で残っている江差付近のアスナロから始った。
アスナロは奥羽の北部に多くある良材なので、その地万の木材業の延長として着手された。
これが運上金をとって山師に伐採させ、他国に積出すようになったのは、延宝六年(1678)、寛文蝦夷乱平定後間もなく、砂金がようやく終りを告げた頃であった。
しかし、その美林が元禄八年(1695) 山火のために立木の過半を失なってしまった。
そしてそのかわりに蝦夷檜山が登場したのである。
蝦夷檜は又唐檜とも呼ばれ、エゾマツのことである。
この事業を発展させたのは飛騨屋こと武川久兵衛という山師だった。‥‥
飛騨屋に残る文書によれば、享保四年(1719) 飛騨屋が金主になって南部の対岸有珠山麓付近で伐採許可を受け、伐出したが、元文年間 (1736-41) からさらにその奥の尻別山 (今日の羊蹄山) 麓の伐採に手を伸ばし、ついで、厚岸山に及んだ。
厚岸も、松前・厚岸間を往復する船が、南部の諸港を避難所にしていたため、比較的交通の便がよかったのである。
そして宝暦年間(1951-64) には転じて石狩山林に着手した。
石狩における伐木は大規模なもので、今日残っている飛騨屋の地図によれば、
石狩川右岸の地は漁川ならびに札幌川 (今の豊平川) 上流の密林地帯、
左岸の地では幾春別川上流一帯に及んでいた。
すなわち漁川の上流空沼岳の西山麓に鍛治小屋・持子小屋・杣小屋・釜小屋・元小屋をふくむ山小屋の大集落があり、
石狩川口から豊平川の支流真駒内川沿いにこの地に至る山道の所々に、米蔵や米運搬入(持子)の泊小屋が描かれている。
伐採には、触を廻して下北半島大畑近在の杣を集め、日和を待って対岸有珠の長流別に渡る。
そこから各人が白米一斗五升ずつを背負い、アイヌを案内にして、途中鮭などをとって食料にしながら、蝦夷部落に泊を重ね、七日程で石狩に出る。
おそらく今日の千歳街道に当る道筋を通ったのであろう。
それから山に入って伐木をする。
米は持子が背負って石狩から運んだ。
夏秋から仕事にかかって、木を伐り、谷川近くまで運んでおき、春雪解けの満水を利用して石狩川口に流送して水揚げをしておき、江戸・大坂から大船を下して積出すのであった。
蝦夷檜は木目が美しいので、献上物の台・障子・曲物などに用いられ、多くは寸甫で出されたが、檜の代用として、注文があると帆柱・角材・平物などとしても積出した。
最盛期には一筒年一万石を伐採する約束で運上金八百両、外に留山料として二百両、合計千両が藩の収入となった。
西蝦夷地の狩場山・尻別川沿岸などにも杣が入った。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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