Up 元の木阿弥 作成: 2019-01-01
更新: 2019-01-01


      高倉新一郎 (1959 ), pp.162-168
    ‥‥ 幕府の力をもってさえも思うように行かなかったこの土地を、一小藩の手で開きかつ守って行くことは容易ではなかった。
    勢い、蝦夷地のことは請負人の手に任され、藩は名目だけの管理をなすに止まった。‥‥
    その場所の請負人は営利を目的とする一商人だった。
    ところが、豊凶のはげしい漁業を基礎とし、遠隔の地を往復するために、収益が極めて不安定で、危険が伴ったばかりではなく、負担が又極めて重かった。‥‥
    [運上金は高騰化し,そして] 請負人はこうした正規の運上金の外に藩からは御用金や立替金を命ぜられ、幕府になると、種々の臨時費用が増運上金の形で課せられた。
    これらのものを契約期間中に回収せねばならぬとすれば、勢い出来る限り義務を怠り、時に施設を荒廃させ、さらに収益を挙げるためには資源の枯渇をも省みなくなるのは当然であった。
    折角開いた道路は荒れてしまった。
    例えば西蝦夷地では熊石から棄木(スツキ)に至る陸道、瀬田内(セタナイ)よりトコマへに至る陸道が荒廃し、東蝦夷でも、幕府直轄時代に開いた猿留(サルル)山道、雨竜(ウリウ)越、網走越などが荒廃して使用にたえなくなっていた。
    通行屋や休所も荒れたところが多かった。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959