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高倉新一郎 (1959), pp.28,29
海岸の要地だけではなく、鷹打人や砂金掘などがかなり奥深くまで入り込み、松前に居ただけでも奥地の事は或程度知る事が出来た。
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‥‥ このトシベツの上流は有名な砂金の産地で、国縫の砂金といわれていた。
この砂金鉱が何時開けたかはよく解らないが、
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元和二年(1616)から寛永五年1628) にかけて開かれた千軒岳四囲の砂金鉱についで、
八年には西蝦夷地島小牧、
続いて十年東蝦夷地ケノマイ (今日の三石郡鳧舞)、
シベチャリ(今日の静内郡静内)、
十二年にはウンベツ(今日の様似付近)、
トカチと開かれて行った
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のを見ると、六〜七年頃にトシベツを遡って開かれたのではないかと思われる。
そして国縫に根拠地が出来、砂金採りが多く屯するようになると、松前付近の方は最早奥とは縁が切れ始めたのであった。
こうした砂金採りは、やがて石狩低地帯を北上して、夕張川上の金山を聞き、石狩川中流に出、それから山越で西海岸羽幌に至る道を知っていた。
羽幌の金山は元禄三年(1690) 発見採掘が始められたことになっているが、それは表向のことで、実はこの頃既に鉱夫が入り込んでいたのではないかと思う。
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同上, pp.39-41
砂金も、「黄金花咲く陸奥」といわれ、平安末期には奥羽の北部で盛んにとれ、平泉隆盛の基となっていたが、それが松前に移ったのである。
松前藩が砂金掘りを許したのは、元和三年(1617)で、松前の東部大沢及び楚湖であったが、その以前から採掘されていたらしい。
しかしこの年、藩は金山奉行を任命し、砂金採取を目的として組を作って来る者には入国を寛大にしたので、来航者は相つぎ、当時来航した耶蘇宣教師の記録によれば、元和五年(1619) には五万人以上、翌年には八万人に達したといわれている。
制度としては、熟練者が砂金のありそうな所を発見すると、区域を定めてこれを松前藩から購入する。
そして仲間を募集し、組を作って入地する。
この組員だということが証明される手形があれば、藩は比較的自由に出入りを許した。
鉱区に対する支払金は採取した砂金をもってしてもよかったが、約束だけは納付しなければならなかった。
すなわち組の組織者が全責任を負っていたのである。
砂金は河底に出んでいるものを掘り取るのであり、中には一つ百六十匁に達する大塊を発見したといい、相当豊富で、松前の通用金はこれをもって表わされているくらいだった。
しかし実際には富者になって帰国する者はすくなく、大多数のものは経費が利益よりも多くかかり、損失を招き、帰国が出来ず、さらに新鉱を求めて奥地に入ることになる。
こうして砂金鉱は十勝・羽幌といった奥地まで拡がって行ったのである。
寛文九年の蝦夷乱の記事には松前藩の城の修築や軍夫などに金掘人夫が主役をなし、国縫や染退川沿岸に鉱夫の屯所があったことが記されていて、かなり多くの人数が来ていたようであるが、この頃にはもう昔の盛況はなかったようである。
乱後、落は元禄年間羽幌の金山の採掘を試みたが、間もなく廃絶し、蝦夷地の金山は事実上寛文の蝦夷乱を転期として終焉を告げたのである。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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