Up 鷹打 作成: 2018-12-29
更新: 2018-12-29


      高倉新一郎 (1959), p.30
    鷹は ‥‥ 松前藩の主な産業で、当時松前家としては手船で蝦夷交易をすることによって生ずる収益に匹敵し、収入の柱となっていた。
    全島で三百余箇所に及び、その内百二、三十筒所は藩主直営、他は家臣に配分されていた。
    鷹打場は人里離れた所にあり、石狩低地帯などは、日高のウンベツ、並びに十勝平原と共に、当時鷹打の活躍舞台の中心だった。
    [寛文九 (1669) 年蝦夷乱において] 東蝦夷地で蝦夷に殺害された者百五十三人中七十一人が鷹打人であったことによってもその盛況は窺われるが、その中六十八人が「数年夷地に而鷹を取候もの」(渋舎利蝦夷蜂起に付出陣書) であった。
    彼等は山野を歩き、蝦夷の家に滞在して獲物を集めたので、蝦夷との接触も密接であり、寛文九年の蝦夷乱の主魁であったシャムクシャインの背後にあった越後の庄太夫、圧内の作右衛門、尾張の市左衛門、最上の助之丞は何れも鷹侍であり、中でも庄太夫はシャムクシャインの娘婿となっていた。

      同上, pp.38,39
    鷹は戦国武将の遊戯に用いられ、高価なものであったが、深山幽谷でなければ獲られないので、奥羽の北部がその中心であったが、松前藩が生れた頃には、松前の山中にも良い鷹が産し、蠣崎慶廣が天正十八 [1590] 年豊臣秀吉を訪れた時、土産に鷹を献上し、以後毎年献上することになり、これに対する公逓の朱印状を貰った。
    鷹の献上は徳川将軍に対しても毎年行われ、又諸大名が争ってこれを求めたので、松前藩の大きな財源となっていた。
    鷹を捕える鳥屋場又は鷹打場は次第に奥地に向ってふえて行き
    寛文 [1661-1673] 頃には石狩低地帯に及んでいた‥‥。
    享保の頃には鳥屋場の数三百九十余筒所に及び、その過半は藩士の知行に与えられていた。
    藩士の知行所からとれたものの内良いものは十両から三十両で藩に買上げられたという。
    鳥屋場には鷹打人が置かれ、毎年八月から翌年の正月にかけて捕えさせ、捕えた時は賞金が与えられた。
    扶持は別である。
    巣にある雛を取って育てる巣鷹の外は、餌鳥を置いて、それを捕えに降りて来るのを網を打って捕えたのである。
    しかし、次第にとれなくなって、宝暦 [1751-1764] 頃になると、真に鷹のとれる鳥屋場は二十二、三筒所に過ぎなくなってしまった。



    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959