Up 松宮観山『蝦夷談筆記』, 1710 作成: 2016-11-23
更新: 2019-02-26


      高倉新一郎 (1969), p.887
    この書は「蝦夷志」に先立つ十年前、即ち宝永七 (一七一〇)年、幕府巡見使として松前に渡った、軍学者北條新左衛門に従って来島した松宮観山が、恐らく一行の案内として加わったと思われる蝦夷通詞勘右衛門の談話を筆記したものである。
    上下二巻に分れ、上巻には、松前蝦夷地の様子を四十数項目に亘って叙述し、後に蝦夷の単語百数十を対訳でおさめ、下巻には寛文九年の所謂シャクシャインの乱の顛末である「松前通事(詞)勘右衛門口上之(とおり)之。勘右衛門は此一揆の節廿歳、佐藤権右衛門手に付諸事自ら見分致申候也。」と記され、乱後四十年を経ていて六十歳になった勘右衛門の物語 ‥‥‥

      同上, p.888
    幕府の巡見使は将軍の代替り毎に、全国に部署を定めてその政情、民情の視察のために派遣されたものである。
    地方ではことにこれを重視して、藩情をボロの出ないように見せることに腐心した。
    巡見使応答心得書というように、今日でいう藩政要覧が作られ、巡見使の質問に口を合せて即答の出来るようにしたもので、形式に陥り勝ちではあったが、これを見れば、一通り当時の藩の事情を知ることができた。
    一行には多くの供人が加わり、表面的な応答では知り得ないことを探るというようなこともあったようである。
    松前にも、寛永十 (一六三三) 年三代将軍家光が派遣した巡見使が来て以来毎回来ている。
    松前藩は東は汐首崎、西は乙部附近まで案内し、それから以奥は馬足不叶という理由で、附近の蝦夷を集めて酒を賜り、ウカルやタプカラ等を見せて引返した。
    今日残る巡見使応答控や、巡見使の残した日記などを見ても、藩の真の姿が見られたとは考えられないが、ともかく、領外の者が落の事情を詳しく知り得る唯一の機会であった。
    だからこの一行の記録には、北海道の実情を知り得る好資料が多い。
    『蝦夷談筆記』などはその一つである ‥‥‥