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高倉新一郎 (1974), pp.144,145
家系は特に重んぜられた。
各家では神を祭る時の木幣につける特別の家紋を持っていた。
これは家長が祭りの司祭となる資格が与えられた時使用を許されるもので、それぞれの属する家系を表していた。
そして家紋の系統を等しくする者は同一家紋の者として特別に親しく扱われる。
たとえ遠く離れて住んでいても、祭祀には招待し、参加してもらった。
曾長はこの家系を正しく選ばれた。
男の家紋に対して女にはウプソロ (隠し腰帯) があり、成人となると母又は近くの目上の婦人から授けられ、一生肌身を離さずにしめ、死んだ後も来世で加入する群れがこの形によって決められると考えられていた。
ためにウプソロは男の家紋と同様女の系統を明らかにするものとして、それぞれの系統によりその形が違っていた。
同一系統のウプソロを持つ者はシネウプソロ (隠し腰帯を一つにする者) と呼ばれ、特に葬式や供養の際特別の役割りを果たさねばならないと同時にシネウプソロの者同士の結婚は禁ぜられていた。
すなわち父の系統の兄弟姉妹やいとこ同土の結婚は許されたが、母の系統の兄弟姉妹やいとこ同土の結婚は忌避された。
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同上, pp.145,146
家長が死ぬと、その座は息子の誰かが継いだ。
必ずしも長男というわけではなく、長男がすでに他に家を構えて独立している場合は同じ家または付近にいる二・三男、時には末子がその跡を継いだ。
その時はあくまでも物としての家を継承するだけで、一族の祭祀は特別の事情のない限り長男が継いだ。
酋長の後などは、長男がその器でないと、長老が寄り集まって相談して決めた。
大事なことは部落の総寄り合いで決められたようである。
主婦が老いると、成長した息子夫婦にその席をゆずり隠居することがあった。
その時は老夫婦が小さな家に別居し、後を継いだ者の扶養を受けるのであった。
家長主婦のいずれか一方が死亡した場合も同様だった。
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串原正峯 (1793), p.501
夫を持事も、生れて二、三歳の頃、其女の親、聟に取るべきものゝ親と約束をなし、小兒の時よりいひなづけ極りあるなり。
若し其女外の男と念頃などする時は甚だ六ケ敷なり。
前にいふことくつくない沙汰となり、多くのアシンベ [つくなひ] を取らるゝ事なり。
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最上徳内 (1808), p.525
長たるもの大抵妾多し。
性悪なるものこれによりて人の患をなすこともあれど、偏に奢侈淫欲のためのみにしかるにもあらず。
或は人ありて某貧若は老病なり。
かれが女子よのつねの夫にしたがひては活計もおぼつかなし。
彼がために長が妾となせよなど仲たちする事あり。
已にこれをゆるしては、僕妾の義にかゝはらず、妾の身はいふに及ばず。
それが父母兄弟もたゞちに長が家族と成て、養は長が力によるといへども、漁獵採草みな長がためにつとむ。
私財なし。
故に妾多きものは何事も助くる者おほくして愈益富を重(ぬ)るなり。
若妾三人あれば三所におき、時に其宅にいたる。
七十、八十の長が廿、卅の妾三、五人も七人も有り。
それらのこときは一年、二年に一たびもいたり宿することありなきにいたるなれど、怨ねたむこともなし。
漁事なとのいとまなきにあへば相集りてつとむ。
妻か心によりては妾をも同居せしむるあり。
妾にあらぬ奴婢などを買て臣とするといふことなし。
男子にでも弧貧獨立することあたはず、長などか家に食客となるものはあれども、只某かウタレと呼で奴僕などいふ名なし。
ウタレとは衆といふことにて、某が所に居る人といふことなり。
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引用文献
- 串原正峯 (1793) :『夷諺俗話』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.485-520.
- 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
- 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
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