Up コタン 作成: 2017-02-14
更新: 2019-11-07


      最上徳内 (1790), p.31
    蝦夷地の一村落、家僅に五戸七戸なり、
    (まれ)に十戸(ばかり)もあれば大村とするなり。

      知里真志保 (1956),「kotan」
    家一軒しかなくても ‥‥‥ 一時的にせよ永住的であるにせよ家の在る所を kotan と云

      同上
    春から秋にかけては海辺に住んで ‥‥‥その際の住家を sak-chise (夏・家) と言い,夏家の在る所を sak-kotan (夏・部落) と言った。 ‥‥‥
    秋の末には夏の家を引きあげて山の手の冬の家に移り,翌年の春まで穴居生活を営んだ。 その家を toy-chise (土・家) と言い,それのある所を mata-kotan (冬・部落) と言った。或は riya-kotan (越年する・村) とも言った

      地名「積丹(しゃこたん)」は, 「sak-kotan」から。

      松田伝十郎 (1799), pp.82,83
    比所 [ビバセ] 漁場にして土人家三戸あり。
    仁三郎 [松田伝十郎] 草小屋に止宿。
    夜に入て此所の乙名夷 村長なり マタンカシイ 人名 と云夷来り、
    通詞七郎兵衛を以申出るは、今晩我が處に止宿の祝として此品を獻じ申度よしにて持参せしを見に、寄鯨を細くさき干立しものにて、かたきこと石のごとし。
    中々齒におよびがたく、すこし食して一禮述(ベ)て、通詞に尋(ね)問へば、尊き人または珍客等あるときは、右様の干魚など遣してもてなすは夷人の風儀と答ふ。
    さすれば、本邦の菓子にひとしく聞(ゆ)る。


      菅江真澄 (1791):


    引用文献
    • 最上徳内 (1790) :『蝦夷草紙』
      • 須藤十郎編『蝦夷草紙』, MBC21/東京経済, 1994, pp.19-115.
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 知里真志保 (1956) :『地名アイヌ語小辞典』, 北海道出版企画センター, 1956