Up 作成: 2018-11-14
更新: 2019-11-11


    (1) 和人依存・地域格差
      高倉新一郎 (1942), p.17
    衣服もアットシ、若くはデタラツペと稱する植物繊維の織物がかなり古くからあったらしいが、
    後世迄残っている器具・手法から見れば、直接にか間接にか是を内地人より受けた技術であって、
    此手法の入る以前には、鳥獣魚の皮を腱で綴った毛皮衣 (ウリ)、鳥毛衣 (ラプリ)、魚皮衣 (アクミ) 並に草衣 (ケラ) 等が用ひられてゐた。
    卽ち内地人と接觸の尠なかった地方は、ずっと後迄も其技術を知らなかったのである。

      山崎半蔵 (1804), p.63
    当嶋 [エトロフ] の夷人 ‥‥‥ 女は縫と申事も不知、
    日外(じつがい) [いつぞや] 地夷の織しアツシを彼等に見せたりしに、是は如何なる処にて(こしらえ)るものそと問しに、是は地方の女夷ともの織たると申聞せけれハ、彼女夷とも是/\と乍去(さりながら)我等小出籠組さへ皆々出来ぬ事也、是を組たるめの子共も又神の類なりと大に感しける、

      菅江真澄 (1791), pp.541,542
    ものくひはてて,いさ出たちなんほりに,宿料(ブンマ)とてひと夜ねししろ(代)に,あるしのものへ,いろいろ糸に鍼をとりそへてとらすれば,メノコども(シウニ)(フウレ)(レタル)(クンニ)()(ケム)とて,ラヰクイロシカレといひ,ピルカとなかやかにいひもて,よろこべる色の見ゆ。
     ( ‥‥ ラヰクイロシカレとは,これはこれは過分なりといふ意もしか聞へ,さやうなりというこゝろもあり。‥‥ )


    (2) 衣服の種類
      村上島之允 (1800), p.159
アットゥシ

       村上島之允 (1809), pp.603,604
     凡夷人の服とするもの九種あり。
    一をジツトクといひ、二をシャランベといひ、三をチミツプといひ、四をアツトシといひ、五をイタラツペといひ、六をモウウリといひ、七をウリといひ、八をラプリといひ、九をケラといふ。
    ジツトク (十徳) といへるは、其品二種あり。
    一種は本邦よりわたるところのものにて、錦繍をもて製し,かたち陣羽織に類したるもの也。
    一種は同じく錦繍にて製し形ち明服 (明国の官服) に類したるものなり。
    夷人の傳言するところは、極北の地サンタン (山丹) といふ所の人、カラフト嶋に携へ来て獣皮等の物と交易するよしをいへり。
    すなはち今本邦の俗に蝦夷錦といふものこれ也。
    この二種の中本邦よりわたるところのものは多くしてサンタンよりきたるといふものはすくなしとしるべし。
    シャランべといへるは、本邦よりわたるところのものにて、古き絹の服なり。
    チミツプといへるもおなじく、本邦よりわたるところの古き木綿の服なり。
    此三種 [ジツトク, シャランベ, チミツプ] の衣はいづれも其地に産せざるものにて、得がたき品ゆへ殊の外に重んじ、禮式の時の装束ともいふべきさまになし置き、鬼紳祭犯の盛禮か、あるは本邦官役の人に初て謁見するとふの時にのみ服用して、尋常の事にもちゆる事はあらず。
    其中殊にジツトクとシャランベの二種は其品も美麗なるをもて、もっとも上品の衣とする事也。
    アツトシ、イタラツペ、モウウリ、ウリ、ラプリ、ケラこの六穏の衣は、いづれも夷人の製するところのもの也。
    その中,モウウリは水豹の皮にて造りしをいひ、ウリはすべて獣皮にて造りしをいひ、ラプリは鳥の羽にて造りしをいひ、ケラは草にて造りしをいふ。
    この四種はいずれも下品の衣として禮服等には用(ゆ)る事をかたく禁ずるなり。
    たゞアツトシ、イタラツペの二種は、夷人の製するうちにて殊に上品の衣とす。
    其製するさまも、本邦機(じょ)の業とひとしき事にて、心を盡しカを致す事尤甚し。
    此二種 [アツトシ, イタラツペ] のうちにもわけてアツトシの方を重んずる事にて、夷地をしなべて男女ともに平日の服用とし、前にしるせし鬼紳祭祀の時あるは貴人謁見の時等の禮式にジツトク、シャランベ、チミツプ三種の衣なきものはみな此アツトシのみを服用する事也。
    其外の鳥羽、獣皮等にて製せし衣はかたく禁断して服用する事を許さず。

    アツトシ
    モウウリ
    ウリ
    ラプリ
    ケラ

       最上徳内 (1808), p.525
    服は左(えり)、今或は右にするものあり。
    木皮を(ひた)して糸となし、織て布となす。
    麻布の麁なるがごとし。
    アツツシといふ。
    オヒャウといふ木を用(ふ)
    なき所にてはツキシヤニといふ木を用(ふ)
    筒袖にして襟、袖口、(すそ)皆木綿布を裂てふせ縫にし、其間に繍を雑へて文飾となす。
    形、(てん)文のごとく、但何に象ることなし。 意にまかせて作る。 其工最愛すベし。
    婦人の衣は長(く)して紐をつく。
    或は其紐に針をさし、貯、烏の脛をきりて中をうつろになし、文を刻で紐につらぬき、針の所を覆ひ、用あるときは取出して(にわか)に應ず。
    又獣皮、藁草器等に糸針を盛(り)、いづくに行にもこれを()(び)総て女子たるもの、いか(なる)時とても、針絲身を離すことなし。
    針絲(みな)和人と交易して得るところなり。 故に珍重比すべき物なし。
    鄙遠の所々綿乏しきは又木皮を用。
    男子の衣は、背の文、繁にして華なり。
    婦人の服は(わずか)に袖、(えり)、裾、青色布を屬(する)のみなり。
    女子の袒衣(はだぎ)は木綿布にて製(し)、袵を縫合せて、袋のごとくし、裾より頭をさし入て着す。
    これをモールといふ。
    兒に乳するも又必(す)すそより入(れ)て懐にいたる。

      菅江真澄 (1791), p.581
    沖よりちいさき舟を磯につけて、エドモ(絵鞆)のコタンより来るメノコふたり、モヲルとて(クツチ)もなきアツシを()〔袵なき衣をシヤモこれを袋といひ、アヰノはモヲルといひて、頭よりさし入て着て、むねにて紐をむすびたるものなり。凡魯西亜人の着る衣に形のひとしと。エドモより奥のメノコは、モヲルをも又スサホロとて、袖口いと広きアツシをもつねに()けり〕、‥‥


    (3) 文模様の習得
      菅江真澄 (1791), p.567
    浜辺に指もてヲタテントとて、もの()童子(ヘカチ)あり幼女(カネチ)あり。
    童子(ヘカチ)(エビラ)(まきり)の鞘の彫剋(テント)(ほりもの)をまねび、
    童女(メノコ)木布(アツシ)、かたびらなどの(ウカウカ)ちふものを手ならふとなん。

      村上島之允 (1800), p.62
    女夷七八歳の頃より砂地に出て衣服の文繍を手習ふ。
    凡、女児は腰に細き緒をまとふ事六重、賤しき者は三重まとふなり。


    (4) 染め
      串原正峯 (1793), p.506
    蝦夷人の着するアツシに薄紫に染たるあり。
    これは何を以て染たるものぞと尋し所、宗谷領の内にチエトマヱといふ所にフラシノといふものの實なり。
    フラシノは和名濱李((はまなし))と云ものなり。
    是を口中にてかみくつしアツシを染たるなりといへり。
    色合至て見事にて、やはり江戸紫のことし。
    チヱトマヱに澤山あり。


    (5) 子どもは裸
      村上島之允 (1809), p.570

      松田伝十郎 (1799), p.94.
    子供等は十二,三歳迄も裸躰(はだか>)にて育ち,極寒にも犬の皮一枚を着し,‥‥

      最上徳内 (1799), p.529
    嬰児四、五歳、巖冬赤膚にして□(衤+襄)袵におく。
    此時衣をきすれは長じて事に堪へすといふ。
    六、七歳にいたれば成人と同じ。


    (6) 女の装い
      串原正峯 (1793), pp.500,501
    一躰湯浴する事なければむさくろしといえとも、中には生れ付により奇麗なるもあり。
    髪の毛はつむりの眞中にて左右へ毛を分け、禿髪にふり亂し、左右後へ垂かけ、襟の所にてふっつりと剪(り)、髪へ油も付ず、襟のまわりおはマキリを以て剃上げ、剃たる所は髪をたれさげて居る故不見。
    髪剃はなき故、マキリを以て剃るに、マキリは田舎打の至て下品なる小刀にて、刄鐵も少く、價も壹本にて拾八文、貳拾文位の下直なるものなれども、蝦夷の遣ふに剃刄のことく能きるゝなり。
    たまさかには髪を水にて洗ひ、櫛の刄も入るゝ事なり。
    櫛も手作りの櫛にて、目甚だあらく、不格好なるものなり。
    耳にはニンカリとて、交易に此方より渡す耳環を懸る。
    是は錫または眞鍮などにて拵たる耳()なり。
    錫にて拵たるをヤゝカニと云。
    下品なる耳かねなり。
    先のぐる/\巻たる所にはびいどろの玉を(はさ)み、其外餝りを((付))たる耳かねもあり。
    唐太より来る。即マンチウより唐太へわたる
    銀の耳鐶をかけて居るもあり。
    又レツツンカニとて、是も錫、眞鍮、銀などにて拵たる輸を咽へ廻し、又むねへは珠數の如く日本細工のびいどろの玉、寛永通寶の銭、大小の鍔など糸にて通し首へ懸る。
    尤其中には唐太渡の玉もあり。
    又口の周りと手首より臂のあたりへかけ入墨をなす。
    是をヌヱと云。
    其入墨の模様種々ありて一様ならず。
    又左右の手首へも環をかけ、着物はアツシにて拵たるモテルといふもの、是は底のなき袋の如くなる物を臍より下へ着し、其上へアツシのチミプを着するなり。
    チミプといふは着物といふ事にて手羽アツシの事なり。
    メノコの着するアツシのチミプは無地多し。
    縫模様のあるも中には着したるもあり。
    男夷の着する手羽アツシには紺木綿を色々の形に切抜て是を縫付るなり。
    縫付手羽アツシのチミプの圖も後に出す
    帯はしめず。
    草履もはかず。


    引用文献
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 串原正峯 (1793) :『夷諺俗話』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.485-520.
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175
    • 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
      • 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
    • 山崎半蔵 (1804) :『東蝦夷地紀行』
    • 村上島之允 (1809) :『蝦夷生計図説』
    • 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
        高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
    • 高倉新一郎 (1942) :『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942