Up 狩猟 作成: 2016-11-22
更新: 2019-11-09


    (1) 猟者
       菅江真澄 (1789), pp.367,368 (図は p.392)
    [平田内から発つにあたり]  (グウ)をかしらにかけ,こもつゝみのおも(重)げなるに毒箭筐(イカヰフ)をそへて,お(負)ひもたるアヰノの行を,さち(幸)なるあない(案内),あらくま(荒熊)のおそれもあらじ。
    かれに行末をとへば,まづ寄木宇多(ヲタ),カイドロマ,イシカイドロマ,キシノワシリ,チラチラ,あなま,ニビシナヰ,ふやげま,たきのま,タンネヒラ,ボンナイ,でけま,セキナヰ,くろワシリ,まるやま,ビンノマ,ポロモヰ,はたけなか,熊石,と手ををりをり,シャモこと(言)葉かよ(通)うアヰノのかた(語)りもて濱路をゆき,‥‥

       砂沢クラ (1983), pp.10,11
    山猟へは男が一人で行くこともあれば、男同士何人かで行ったり、妻子を連れて行く、親せきと行く、などいろいろなのですが、父は、母を連れて行きたがりました。
    母と一緒に行くと不思議に猟があり、けものがたくさん取れるのです。
    母も、私を祖父母に預けて山に入るのをいやがったので、私は、いつも父母と一緒に山へ行き、山で大きくなりました。


    (2) 猟場 (遠出)
       松浦武四郎 (1860), p.735
    その川 [石狩川] すじ凡そ六,七日を溯り行てウリウ [雨竜川] といへる支流(えだかわ)有て ‥‥ 其川筋に住ける者にて,兄はイコトヱと云ひ,其弟をカニクシランケと申。
     ‥‥
    山野に獵して豪羆(ひぐま)猛(ちょう)(おおわし)を獵獲(とり)ては是を濱邊へ下し、米、酒、煙草または古着の類ひと取かへ‥‥
     ‥‥
    朝に石狩岳の方に行かと思ひの外、夕にトカチ(十勝)、ユウバリ(夕張)、シヤマニ(様似)の岳々を経廻り、アカン(阿寒)、クスリ(釧路)、テシホ(天塩)の嶺まで馳せ歩行き、僕のコンラムと五頭、八頭の豪鵰猛羆を得ずしては歸らざりし‥‥

       同上, pp.756,757
    石狩上川なるヲチンカパといへるは、(かの)カモイコタンよりも二日路餘有て、船程凡十七、八里もと思はる處なるが、此處に住しける土人ブヤツトキと云ふ當年五十二歳、‥‥
    常に山野に走り廻りて、唯獵業を好みて,運上屋の(かせぎ)の間には,唯熊を追てはテシオ川へ越え、鹿を追てはトカチ、ユウハリの岳にまでも堅雪の上を渉り行くこと(くらい),隣の如く、
    朝に家を出ては夕はサヲロ トカチ領なり に夜を明し、またのタはクスリ、トコに越るをもことゝも思はず、
    足跡さへ見當りなば一疋にても是を取り迯(逃)せしと云ふことなかりしが、‥‥

       砂沢クラ (1983), pp.10,11
    私が、まだ小さかった四歳の夏 (明治三十四 [1901] 年) のことです。
    私は母におぶわれ、父に連れられて、旭川からヌタップカムイシリ (神の山=大雪山) を越え、佐呂間の猟場をめざして歩いていました。


    (3) 猟具
       最上徳内 (1808), p.534
    鳥獣は弓矢を用。
    弓は丸木にしてオンコといふ木を用。
    オンコはあらゝぎなり。
    弦は鯨魚の筋を用れども、なければ木皮又麻をよりあはせて作る。
    矢はシヰキを用。
    シヰキはおにかやといふものなり。
    (やじり)を二段につくり、各ぬけ易き様になす。
    熊を射るとき熊かならず簇の集たる所を噛で抜去。
    此時簇ぬけて肉にとゝまるための用意なり。
    簇には毒をぬる。
    毒一法にあらず。
    其郷土によりて小異あり。
    烏頭(うとう) (トリカブト) をはなるゝことなし。
    足の長き蜘蛛(くも)、蕃椒、また水虫一種あり。
    その他の物を用るもあり。
    魚を射るにはきせるのやにを加ふるをよしとす。
    烏頭を製するに極て巧拙あり。
    和俗の芥子をかくに、手によりて気味を増といふの類にて、巧拙の外、人によりて果して毒の効、別なること有とぞ。
    これによりて聚落中にて某が製毒よしとて、もらゐて用ることなりとぞ。
    大熊を射て一()にして三、四歩もしくは五、六歩を走る間、忽(たお)る。
    又一足も迻さす死するもあり。

       菅江真澄 (1791), pp.580,581
    ある家にアヰノの(グウ)(カル)するを見れば、小刀(エビラ)(まきり)ひとつのわざながら真鉋(ピルカネ)(まがな)もて削りなせるがごとし。
    (トップ)箭鏃さしたる箆は高萱(たかかや)茎太(くきぶと)なるに(カビ〇ウ)の羽を四ツ羽、あるはニツ羽にも魚肚(ユウベ)(にべ)もて()ぎ、もと末をば糸巻て、ことなれることなし。
    竹鏃に(シウル)をぬれり。
    又楼弓のごとく(グウ)を曳き(まがな)ひて、これをアヰマップとてこの(グウ)(ど)を野山におくに、獣の大なると、さゝやかなると、其身の長を図るに大拇(ルアシキベツ)(おやゆび)をかゞめ、此高さしては(エリモ)を撃ち、はた指を突立て、これは兎、これは(モロク)(たぬき)、これは鹿(ユツフ)、これは(チラマンデ)とて、わがかひな、肘のたけ、あるは立て、腰、膝などのたかさ,それぞれに斗立て操弓挟矢(アヰマツプ)()く。
    それに長糸()を曳はへたり。
    ()に露もものさはらば、毒気(シウル)(アヰ)(や)飛来て,身にゆり立て、あといふ間もなう、命はほころびけるとなん。
    アヰノの浦山(コタン)をあないもあらで行て、此アヰマツプに撃れて身をうしない、放ちたる馬など、うたるゝこと数しらず。
    もしあやまちてこの毒箭にあたらば、中毒(シウル)のあたりを小刀(エビラ)して、(ししむら)を割き捨るの外に(すべ)なけんとか、‥‥

       村上島之允 (1800), p.101


    (4) 熊猟
       東寗元稹 (1806), pp.38,39.
    弓は丸木也。
    長さ三尺餘、大き((太さ))三寸ばかり、椛にて巻、弦は苧縄を用ゆ。
    ()の長さ壹尺五寸(ばかり)、篠なり。
    獣骨を三寸(ばかり)付たす。 是は獣に射立ときに打込むがためなり。
    (やじり)は竹或は銅を用ゆ。 毒をぬる。
    羽は、鷹、(からす)にても造る。 みな四羽也。 上國の射法のごとくにはあらず、羆を射るに岩を傳ひ山をよぢて羆をさけながら犬をかけるによって、羆は夷人をくらはんとねらへども、彼方此方へ飛めぐるによって、羆平地の如く自由を得ず。 然るに彼狗後部にくらひ付を、ふり返り狗をかまんとする時、腰だめにて多くは射る事なり。よって四羽にしたるものなり。
    一矢射ると、羆憤怒によって、猛勢別してはげしによって、毒氣のまはる事はやしと。
    罷も矢を受けると、其儘矢をくわへて引ぬくに、()は篠にて獣骨に鏃をさし込なれば、箆はくわへて取れ共、獣骨より鏃は残りて抜けず。
    尤矢には 獣骨、鏃、此處に毒をぬる (圖略)斯仕かけあれば也。
    血の流れ出る所へ草をすり付、又沙等をすり付る所を、二の矢を射るなり。
    此して毒氣速にて、遠く遁るゝ事あたはずして((たふ))ると也。


    (5) 鷲猟
       村上島之允 (1800), p.102
    蝦夷、鷲を獲るに、
    深林幽谷微流の傍に小屋を建、其中へ夜の中に入、如圖繋置、
    魚のはねるを見て鷲来りとらんとする所を、五尺はかりなる杖の先に鍵を付置、鷲の趾をかけ、獲る事なり。
    至而ひそかに忍ひ居され獲る事かたし。


    引用文献
    • 菅江真澄 (1789) :『蝦夷喧辭辨 (えみしのさへき)』
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
      • 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
    • 東寗元稹 (1806) :『東海參譚』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.23-44.
    • 最上徳内 (1808) :『渡島筆記』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.521-543
    • 松浦武四郎 (1860) :『近世蝦夷人物誌』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.731-813
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983