デマゴギーを使わせるものは,怨念である。
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貝沢正 (1971), pp.125,126
私は自らの意見も言わず、例を述べるに過ぎないが共感を得たものを列記した。
もう一つ、十勝の女子高校生の稿をお借りして新しいアイヌの考えを知ってもらいたい。
『歴史を振り返ることによって真の怒りを持つことができる
「差別されたから頭に来た、あいつらをやっつけたい」
それはそれだが、そんな小さな問題に目を向け右往左在しているだけでは駄目だ。
私たちがアイヌ問題を追って行く時突き当る壁は同化ということだ。
明治以来の同化政策の波は、もはや止めることはできないだろう。
私は、何とか、アイヌの団結でシャモを征服したいものだと思った。
アイヌになる。
北海道をアイヌのものにできないものか。
だが、アイヌの手に戻ったとしても差別や偏見は残るだろう。
やはり、根本をたたき直さねばならないのです。
アイヌは無くなった方がよいという考え方、シャモになろうとする気持が、少しぐらいパカでもいいからシャモと結婚するべきだと考えている人が多いと思う。
私の身近でも、そういう人が随分いる。
私はこのような考え方には納得できない。
シャモに完全に屈服している一番みにくいアイヌの姿だと思う。
これは不当な差別を受けても "仕方がないのだ " と弱い考え方しかできない人たちなんだと思う。
アイヌだから、差別されるから、シャモになった方が得なんだと言うなら、それは悪どい、こすいアイヌだ。
なぜ差別を打倒しないのか。
なぜ、アイヌ系日本人になろうとするのか。
なぜアイヌを堂々と主張し、それに恥ることのない強い人間になれないのか。
どうしてアイヌのすばらしさを主張しようとしないのか?
私は完全なアイヌになりたい。
個人が自己を確立し、アイヌとして真の怒りを持った時、同化の良し悪しも片づけることが出来ると思う。
強く生きて、差別をはね返す強い人間になることだ。』
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イデオロギーは,怨念の合理化である。
イデオロギーのエネルギーとしての怨念,そしてそのイデオロギーが利用しようとする怨念──これについては,いまさら論ずるまでもない。
既存の論攷の中から良質なものを引けば足る:
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ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』「毒ぐもタランテラ」より
見なさい、これが毒ぐもタランテラの穴だ! その正体を見たいと望むのか?
ここにくもの巣がかかっている。さわって、ふるわせてごらん。
くもがいそいそと出て来た。よく出て来た、タランテラ!
おまえの背中には、黒い三角のしるしがついている。おまえの魂のなかにあるものも、わたしには見当がついている。
おまえの魂のなかにあるのは復讐の一念だ。
おまえに噛まれると、真黒なかさぶたができる。
おまえの毒は復讐心を植えつけて、人びとの心を狂わせ、踊らせる。
平等の説教者たちよ!
わたしが諸君に話しているのは比喰だ。諸君も人びとの心を狂わせ、踊らせるではないか。諸君は毒ぐもタランテラだ。
隠れた復讐心の持ち主だ!
しかし、わたしは諸君の隠しているものを明るみに出してやろう。
わたしが諸君に面とむかつて、わたしの高山の哄笑をあびせかけるのもそのためだ。
わたしが諸君のくもの網をこわすのもそのためだ。
諸君を怒らせ、嘘でかためたその穴からおびきだし、諸君の口癖の「正義」の背後から、諸君の復讐心をおどりださせようとするわけだ。
なぜなら、人間が復讐心から解放されること、これがわたしにとって、最高の希望への橋であり、長期の悪天候のあとの虹であるから。
もちろんタランテラの願うところは、そうではない。
「世界中に、われわれの復讐心で暗くなった悪天候がゆきわたること、これをわれわれは正義と呼ぶ」──かれらはたがいにこう語りあう。
「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」──タランテラたちは心をあわせて、こう誓う。
「そして『平等への意志』──これこそ将来、道徳の名にかわるべきものだ。権力を持つ一切のものに反対して、われわれはわれわれの叫びをあげよう!」
諸君、平等の説教者たちよ!
してみれば、権力にありつかない独裁者的狂気が、諸君のなかから、「平等」を求めて叫んでいるのだ。
諸君の、ふかく秘められた独裁者的情欲が、こうした道徳的なことばの仮面をかぶっているのだ!
傷つけられた自負、抑圧された嫉妬、おそらくは諸君の父祖の自負であり、嫉妬であったものが、諸君のなかから、復讐の炎となり、狂気となってほとばしり出てくるのだ。
父親が黙って押隠していたものが、息子になると、口をききだす。
わたしはしばしば息子が、暴露された父親の秘密であるのを見た。
この説教者たちは、いかにも感激に駆られている者といったふうだ。しかしかれらを興奮させているのは、純真な感情ではなくて、──復讐の念なのだ。
またかれらが緻密で冷静になるなら、それは精神がそうさせるのではなくて、かれらの嫉妬が緻密で冷静にさせるのである。
かれらの敵愾心は、またかれらをして思想家の道を歩ませもする。
それが敵愾心だということは、──かれらがいつも行きすぎをやることでわかる。
あげくのはては、かれらは疲労のあまり雪の原で行き倒れになったりする。
かれらがあげるすべての不平の声からは、復讐の念が聞こえる。
かれらが呈するすべての讃辞には、ひとを傷つける意図がある。
ひとを裁く者だということが、かれらには無上の幸福と思われる。
しかし、わが友人たちよ、わたしはあなたがたに、こう勧める。
ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!
かれらは悪質で、素姓の劣った人間たちなのだ。
かれらの顔からのぞいているのは、首斬り人と密偵だ。
自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!
まことに、かれらの魂に欠けているのは、円熟の蜜ばかりではない。
たとえ、かれらがみずから「善くて義しい者」と称していても、あなたがたは忘れてはならない。
かれらがパリサイ人となるために欠けているのは、ただ──権力だけであることを。
わが友人たちよ、わたしをほかの者と混同したり、取り違えたりしてくれるな。
生についてのわたしの教えと同じものを説く者がいる。
それが同時に平等の説教者、すなわち毒ぐもでもあるのだ。
毒ぐもどもは、その穴のなかにひそんで、生に背いているにもかかわらず、しかも生を讃え強調する。
これはその相手に打撃を与えようという意図だ。
その相手とは、現に権力を掌握している者たちのことだ。
この権力者たちのあいだでは、いまもなお死の説教がはばをきかせているからである。
もしそうした事情がなければ、タランテラどもはまた別の教えを説いたであろう。
その昔、,最もたくみに世界を誹謗し、異端者を火あぶりにした者たちも、ほかならぬこの毒ぐもの一族であった。
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引用文献
- 貝沢正 (1971) :「近世アイヌ史の断面」
『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971. pp.113-126.
- 氷川英廣訳 : ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った 上』(岩波文庫), 岩波書店, 1967.
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