Up 河野本道の転向──「アイヌ民族」否定 作成: 2017-03-09
更新: 2017-03-09


    河野本道は,1970年頃は,「反帝」を唱え,「アイヌ解放同盟」へのシンパシーを表す者であった。
    そして,ウタリ協会とは,『アイヌ民族に関する法律(案)』作成に参与するという関係をもった。
    しかし,民族派"アイヌ" の言動が攻撃性を増していく情勢の中で,河野本道は「アイヌ民族」を否定する者になる。

      『アイヌ史/概説』 , 北海道出版企画センター, 1996.
    pp.191-203.
    第五節 《近現代》特論 II /現代アイヌ系日本国民における自民族意識の形成
    I「アイヌ」および「ウタリ」という呼称のもつ意味
    〈現代アイヌ系日本国民〉の理解については、とくにその自民族意識に関する知識を欠くことができないと考えられる。
    実際に個々人による内面的な自民族意識について十分な認識を得ることは必ずしも容易ではないが、自らを「アイヌ」あるいは「アイヌ民族」であるとする自意識は、主観的にしろ客観的しろ、今日の「アイヌ」(系の者) を社会的に位置づける上で極めて重要な要素となっている。
    このことは今日往々にして、「仲間」あるいは「同胞」あるいは「同族」の意味をもっと解釈されている「ウタリ (utar-i)」という用語が、「アイヌ」(系の者) 自身によってもそれ以外によっても、広くで「アイヌ」または「アイヌ民族」と同義ないしそれらに近い意味の用語として用いられるようになっていることなどから指摘することができる。
     しかし、utar-i という語は、本来主として〈一族〉〈親族〉〈部下〉〈家来〉のような範囲の者 (たち) を指す語として用いられ、〈近時期〉以前に民族名称として用いられた可能性はなさそうである。
    ちなみに、〈血縁関係にあるもの〉とか〈同種族 (同民族) 〉を意味する用語が他に知られている。
    また、1961年の『(社) 北海道ウタリ協会』の再建に伴い,同協会名に「アイヌ」という呼称を用いると差別を助長されるという危倶があったため、「アイヌ」に代えて「ウタリ」という用語が採用されることになったと言われている。
    その後30年を経る間に、utari という言葉は、「アイヌ」(系の者) およびそれ以外によって、「アイヌ」または「アイヌ民族」を指す代用語として次第に広く使われるようになった。
    1987年に『(社) 北海道ウタリ協会』で、内部より〈(社) 北海道ウタリ協会〉の名称を〈(社) 北海道アイヌ協会〉に変更するよう求める意見がかなり強まったのに伴い、その是非が検討されたが、それを現状のままとする声がまだより強く、結局この名称変更案は今日まで見送られてきた。
     そして、『(社) 北海道ウタリ協会』では、『アイヌ民族に関する法律 (案)』を公にした1984年頃から、積極的に「アイヌ民族」という用語を用いるようになり、『アイヌ民族の自立への道』なる題名の冊子 (1987年12月初版発行) を刊行して広くに配布したりしている。
    なお、1986年11月には、中曽根首相が日本国を「単一民族国家」とした発言に対して、『(社) 北海道ウタリ協会』は抗議団を組織しており、この頃よりとくに政府あるいは国内の広くに「アイヌ」(系の者) を「民族」として認めきせる働きかけを次第に強めている。
     ところが、1986年12月の外務省国連局人権難民課による国連に対する報告では、
    本条との関係で提起されたアイヌの人々の問題については、これらの人々は、独自の宗教及び言語を保存し、また独自の文化を保持していると認められる一方において、憲法の下での平等を保障された国民としての上記権利の享有を否定されていない」
    とされており、「アイヌ」(系の者) がとくに「民族」として位置づけられるということにはならなかった。
    しかし、その後『(社) 北海道ウタリ協会』などの働きかけによって、1991年12月、外務省国連局人権難民課は、国連に対し「アイヌの人々」を「本条 (第二七条) にいう少数民族であるとして差し支えない」と報告し直している。
    これによって、「アイヌ」(系の者) は外務省により「少数民族」としての一応の位置づけをなされたことになるが、アイヌ系日本国民が日本国内においていわゆる「和人」に比べて極く「少数」であることは疑い得ないとしても、その「民族」としての位置づけについては検討の余地があると言えよう。
    外務省国連局人権難民課による国連への1991年の報告によれば、
    本条 (第二七条) との関係で提起されたアイヌの人々の問題については、これらの人々は、独自の宗教及ぴ言語を有し、また文化の独自性を保持していること等から本条にいう少数民族であるとして差し支えない」
    とされているが、ここではどの程度「独自の宗教及び言語」「文化の独自性」が保持されているか、その担い手がどれほど存在するかといった点が度外視されており、これらの点を明らかにせずして「アイヌ」(系の者) を「民族」と位置づけたところで、それは無意味であるとしか言いようがない。
    しかも、同報告は「アイヌ」の成立過程や「民族」の概念規定などに触れていないので、なおのこと有効性を欠くものと見なされる。

    II 「アイヌ民族」としての復権運動と「アイヌ文化」の復興活動
     今日でも芸能面、儀礼面、言語面などについて、「アイヌ文化」の残存を認めることができるが、そのような諸面の残存度はとくに第二次世界大戦後低まる傾向が強くなった。
    このようなことはまた、「アイヌ」もしくは「アイヌ民族」であるという意識をもち、その存立を守ろうとする者に危機感を募らせることになった。
    そして、「アイヌ」の存在を示し、「アイヌ」の存立を守るために、盛んに「アイヌ」の復権が謳われたり、「アイヌ文化」の復興、再現が試行されるようになった
     なお、「アイヌ文化」の復興、再現活動は、とりわけ高度経済成長後、工芸、縫製および刺繍、芸能、儀礼、言語などの諸面で盛んになっている。
    このような文化面での復興、再現運動は、仲間意識 (あるいは同胞意識あるいは同族意識) を再興し、維持し、喚起するために有効となる。
    そのような文化の復興、再現活動のうちの一側面である〈祖先供養祭〉についてみると、祖霊祭や葬送儀礼にもとづく「民族」復興のための強化儀礼と見なすことができる。
    また、「アイヌ」の「民族」としての復権や「アイヌ文化」の復興のための活動として、例えば、次のような例を上げることができる。
      1969年9月23日
    『シャクシャイン祭』開催 (改めて開催) 〈於/静内町内〉。
    1974年9月7日
    『ノッカマップ=イチャルパ』開催 (第1回) 〈於/根室市内〉。
    1975年3月22日
    〈参考/事例外〉『クーチンコロ顕彰碑』除幕式挙行に関わる (以後毎年同所で儀式挙行) 〈於/旭川市内『アイヌ文化の森・伝承のコタン』〉。
    1982年9月15日
    『アシリチェップ=ノミ』開催 (第1回) 〈於/札幌市内豊平川畔〉。
    1984年1月21日
    運動の結果、「アイヌ古式舞踊」が国重要無形文化財に指定された。
    1984年8月11日
    『アイヌ人骨イチャルパ』開催 (第1回) 〈於/札幌市内北海道大学医学部アイヌ納骨堂〉。
    1987年8月
    『アイヌ語教室』開設 (初開設) 〈於/平取町内・旭川市内〉。
    1989年3月13〜15日
    『アイヌ文化祭』開催 (第1回) 〈於/札幌市内〉。
    1994年6月18〜19日
    『コシャマイン慰霊祭』開催 (第1回) 〈於/上ノ国町内〉。
     このような諸活動が展開されるようになったとはいえ、最近の日本におけるような社会環境の著しい変化の中で復興、再現される「アイヌ文化」は、一事例の場合についても古来のままとすることが難しく、新たな要素が伴われたものとなっている
    そして、その新たな要素は社会環境の変化に応じて加えられたものと認められるが、それらを混じた文化もまた現代の「アイヌ文化」として往々通用されている
     なお、以上のような「アイヌ民族」の復権のための諸活動や「アイヌ文化」の復興、再現活動は、共通の仲間意識にもとづいて担われている。
    ところが、アイヌ史の過程において、これまで少なくとも「アイヌ」(系の者) が全体としての単一民族社会を形成したという形跡はない

    III 「アイヌ」の諸社会集団と古層文化域
     今日「アイヌ」と言えば、北海道島域の古来民 (もしくは古来民系の者) のみならず、サハリン島南部域、クリル諸島域 (とくに中部および北部域) 、ひいては奥羽地方などに居住の古来民 (系の者) をも含んで言う場合が普通となっており、これらの諸地域におけるかつての古来民に文化的共通性ないし近似性を認めることができるが、これらの諸地域におけるかつての諸集団の社会、経済史的面の差異は大きい。
    同諸地域のかつての古来民 (もしくは古来民系の者) は、言語について方言を認められているが〈アイヌ語〉として包括されており、宗教、芸術、物質文化などの面でも共通性や近似性が色々と認められるなどのことから、これまで一般にその文化が総じて「アイヌ文化」と呼ばれてきたが、それを〈一民族文化〉としての「アイヌ民族文化」と見なすとすれば、社会的側面について問題がある。
    というのは、既述のような範囲の総じた意味での「アイヌ」は、他から共通の運命を担わされたり、一集団的扱いを受けたことはあるが、自ら一集団化してはいないと考えられるからである。
     「アイヌ」という語は、今日往々にして自称として解釈されてもいるが、その自称としての起源や範囲については明らかにされておらず
      アイヌ語の「アイヌ」(自称の意の場合を含む) が意味上他称の「蝦夷」「旧土人」などの和語に置き換えられて他称的な用法がとられるようになり、そのような方法が習わしとなって、今日のように自称でも他称でもある民族呼称として理解され通用されることになった
    という可能性がある。
    但し、そのように「アイヌ」を「アイヌ民族」として包括的に解釈し、「アイヌ」という呼称を意味上他称的な用法をもって用いると、「アイヌ」が本来複数のおおよそ自立的な集団に別れており、それらの複数の諸集団が、社会的に流動性をもっていたにしろ、それぞれの歴史を担っていたという点を無視することになる。
     「アイヌ」はかつて地域ごとに異なる形式の墓標を用いており、また、地域ごとの集団間の争いを物語る伝承を多々残したりもしている (本論第一章第四節付編参照) 。
    そして、このようなことは本来それぞれの集団が独自に民族的 (部族的) なグループを構成していたことを物語っているものと理解される。
    1669年におけるシャクシャインらの一揆の際でも、対立集団や両者に属さない集団が存在した。
    とくにその後、既述のような諸グループの社会の枠が、「和人」による支配を通じて漸次崩されて行き、そのような過程で共通の運命を担わきれた者たちの間に仲間意識が芽生え、それが次第に増大しあるいは広がることになったと考えられる。
    このようにして「アイヌ」(系の者) の中に漸次一民族的意識が形成され、広まっては行ったが、それがエンチゥ (カラフトアイヌ) 、北海道島域の諸集団、クリルアイヌに共通する一つのものとなるまでには至らなかった。
    ここに民族の概念を規定するに当たって、他の文化要素よりも自民族への帰属意識を重視するとしたら、「アイヌ」(系の者) を一民族として位置づけることの難しくなる理由がある
    ちなみに、クリルアイヌは日本の第二次世界大戦敗戦頃には、一社会集団を構成し得ない数となっており、第二次世界大戦後サハリン島南部域より北海道に移住したエンチゥ系の一部が、一定のまとまりをもって『(社) 北海道ウタリ協会』に所属することになったのは、1980年 (常呂支部の一部) 、1982年 (豊富支部) のことである。
    また、エンチゥ (系の者) やクリルアイヌ (系の者) は、ロシア人との関係が北海道島域の諸集団に比して強く、北海道島域の諸集団については、「和人」との関係がエンチゥやクリルアイヌに比して強いという時代があり、これら三地域の丈化は包括的に扱うことのできない面がある。

    IV 第二次世界大戦後における民族意識の形成
     第二次世界大戦後については、「脱アイヌ」という用語が使われるようになり、「アイヌ」(系の者) には一民族へと向かう方向性が認められる一方、拡散あるいは離脱といったそれとは逆の方向性も認められる。
    そして、『(社) 北海道ウタリ協会』を構成する1995年頃のアイヌ系世帯数は、全アイヌ系世帯数の半数に満たないと推定される。
    また、『(社) 北海道ウタリ協会』の構成員は、1995 [平成7] 年度まで「ウタリ及ぴその家族」とされており、例えば、北海道各地出身者にエンチゥ系の者を加えた札幌支部の構成世帯数約300世帯についてみると、1995年には夫妻の一方が和人である世帯が90数%近く (あるいはそれ以上) に達していると推定される。
    今日ではこのように混血度が高まったため、「アイヌ」であるという民族意識あるいは同族意識をもつ上で、形質面にはあまり頼れなくなっている
    また、文化面でも基本的な生活様式が「和人」同様となっているので、復興、再現文化にも極端には頼れぬ現状となっている
    しかしながら、自らを「アイヌ」として位置づける民族意識は行為として表現され、厳然として認められる。
    しかも、論理的に正しいか否かは別として、いま「アイヌ」(系の者) が「民族 (一民族) 」であることを必要視する集団が日本国内に存在するという事実は否定できない。
    そして、そのような必要視の理由を明らかにすることによってこそ、今日におけるアイヌ系日本国民の、自らを「アイヌ」と位置づける民族意識の理解を深めることができると考えられる。
     そのように「アイヌ」(系の者) が「民族」(一民族) であることを必要とするようになった理由としては、次のような点を指摘することができる。
     1, 1960年代末、高度経済成長に陰りが認められるようになったため、従前より生活に不安感をもつようになったこと。
     2, 1969年7月に『同和対策特別措置法』が公布されたが、その適用と比較して「アイヌ」に対する福祉対策が遅れていると感じるようになったこと。
     3, 1970年6月、北海道市長会で『北海道旧土人保護法』の廃止案が採択されたが、これにより依拠するところを失うという危倶を感じるようになったこと。
     4, 「アイヌ」もしくは「アイヌ民族」の一員であるという意識をもち、それを表明しながらも、『北海道旧土人保護法』については廃止を求めるという立場のあることが一段と明確になり、「アイヌ」(系の者) の間に大きな立場の差異のあることが浮き彫りになってきたこと (→とくに1972年11月、『旭川アイヌ協議会』が設立されたことにより、そのような立場の差異のあることが明らかになった) 。
     そして、以上のような諸点に加え、アイヌ系の者自身が「少数民族」あるいは「先住民族」によって構成される国際的な会議に参加するなどして、「少数民族」や「先住民族」の世界的な動向についての様々な情報を得られるようになると、それに伴い次第により有利な運動の展開方法を見極めることができるようになり、一層「アイヌ民族」の復権運動や「アイヌ文化」の復興活動に拍車が加えられることになった。
    今日における一民族としての「アイヌ民族」への帰属意識は、以上のようなところから強化されあるいは醸成されたと考えられる。
     なお、そのような民族意識をもつ者によっては、特定の階層が形成されつつあるようにも見える。
    言い換えるなら、今新しい「アイヌ民族」が形成されつつあるかのようにもみえる。
    しかし、すでに「アイヌ」(アイヌ系の者) には拡散、離脱する向きも強くなってきていることから、そのような一民族としての「アイヌ民族」への帰属意識をもっ方向性は、〈現時期〉におけるアイヌ系の者のうちの一方向性としか見なすことができない。