- 同化志向の家庭環境で育つ
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本多勝一 (1988), pp.79-81
貝沢正 [1912-1992] が物心ついたころ、父方も母方も祖父母が元気だった。曽祖母も一人いた。
祖父は二人とも立派なヒゲを長くのばし、祖母と曽祖母は三人とも口のまわりに入れずみをしていて、みんながアイヌ語で話し、アイヌ文化を継承していた。
‥‥
アイヌの民族文化を、祖父母たちはもはや孫に伝えることを断念し、むしろ避けていたのだ。
その象徴的あらわれは、ユーカラやウエペケレの名うての伝承者だったコタンピラ夫妻の態度である。
幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。
‥‥
そのような「日本化」(非アイヌ化) 方針で育てられた父・与治郎は、自分はもちろん息子の正にも、日本的価値観を「よいもの」として脱アイヌにつとめさせた。
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平村コタンピラ
- 「言語風俗が完全に同化し切った今日」
- 二風谷の状況──明治政府発足以降,1935年まで
『二風谷』「第3章 二風谷歴史年表」から抜き書き:
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1870 |
32戸,140人 |
1880 |
バッタによるヒエ,アワの被害おびただしかった。
<二風谷村の産物> アツシ,シイタケ,シカ (42頭),他熊(12頭) |
1885 |
13.9町 (36戸) ──1戸平均約4反耕作 |
1892 |
二風谷小学校 (修業年限3年) 開校 |
1893 |
貝沢ウエサナシ・貝沢ウトレントク,くるみ・桂材で盆や茶托を彫り,札幌で販売。
──二風谷民芸品販売の初め。 |
1895 |
松崎順吉,二風谷に18町余を購入し居を構え開墾を始める。──二風谷和人農業耕作定住の初め。 |
1897 |
人口53戸, 157人 (内和人8戸, 38人) |
1898 |
畑流失。 |
1899 |
旧土人保護法 (この年公布) により給与された土地52戸, 1戸平均 2.8町。
松崎順吉,水田1反歩初めて試作。 |
1904 |
松崎順吉,果樹植栽を始める。 |
1910 |
人口67戸, 297人 (内和人19戸, 83人) |
1914 |
二風谷青年会,北海道長官より表彰。 |
1916 |
二風谷小学校,旧土人保護法による小学校となり,修業年限4年となる (児童数42名)。 |
1919 |
商店,松崎・鎌田2軒。 |
1922 |
8/24〜25,沙流川二風谷附近で大氾濫,耕地流出。
生活困窮者続出,造田計画頓挫し,男は造材人夫として,女は飯場の飯炊きとして出稼ぎに出る者多くなる。 |
1929 |
小学校,二学級編成となる。児童数79名 |
1930 |
人口447人 (内和人166人, 37%)
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1931 |
貝沢正,全道アイヌ大会 (バチェラー主催) に参加。
凶作で畑作平年の5分以下。 |
1932 |
2年連続凶作。生活困窮者続出。多くが造材山に入る。 |
1934 |
冷害。
貝沢与次郎,乳牛飼育を始める。 |
1935 |
人口649人 (内和人276人, 43%)
8/24 沙流川氾濫,凶作と水害で生活困窮を極める。 |
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引用/参考文献
- 貝沢正 (1931) :「土地保護施設改正に就いて」, 蝦夷の光, 第2号, 1931. pp.22-24.
- 二風谷部落誌編纂委員会 (1983) :『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
- 本多勝一 (1988) :「「北海道アイヌ」こと貝沢正氏の昭和史」
- 収載:本多勝一『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.75-94.
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