Up 萱野茂 1926-2006 作成: 2016-07-01
更新: 2018-11-27


  • 起業"アイヌ" として
       二風谷部落誌編纂委員会 (1983)
    pp.233,234
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。
    ‥‥‥
    そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。 昭和43年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。

    pp.235,236
     昭和48年には二風谷商工振興会 (会長貝沢正) が発足、商店街の振興を計っている。
     昭和57年6月現在二風谷商工振興会 (会長貝沢正、副会長貝沢勉、萱野茂、事務局貝沢薫) 会員数20名 (加入民芸品店16、飲食店4)。

    p.236
     アイヌは日用品のほとんどを木や木の皮からつくり、木製用品には木彫、衣装には刺しゅうをほどこす習慣だった。明治になって資本主義経済が北海道にも本格的に流れ込み始めると、明治26年(1893年) 貝沢ウエサナシ (貝沢正・与一・辰男・青木トキ兄妹の祖父、貝沢みな子・定雄・隆司姉弟の祖父、貝沢耕一の曽祖父、霜沢百美子の外曽祖父)、貝沢ウトレントク (貝沢勉・薫・美枝兄妹の祖父) がクルミやカツラ材でアイヌ文様を彫り込んだ盆や茶托を作り札幌で販売しているが、これが二風谷民芸品の始まりといっていい。ウトレントクは大正3年(1914年)、ウエサナシは昭和14年(1939年) に亡くなったため,その後は貝沢菊治郎がパイプの製作・販売をするくらいで、自分たちの伝来の技術を生かして金に換えようと考える者はいなかった。
     その点に着目したのが萱野茂である。昭和20年代には、全国の小学校生徒にアイヌの生活や踊りを見せる巡業に村人を引率参加して、北海道以外の人々の生活や観光地を垣間みて歩きアイヌ民具が高く売れることを知って、昭和28年頃から自らカツラやクルミで茶托やお盆の製作に着手し、その後の二風谷アイヌ民芸、アイヌ観光の先鞭をつけた。

    pp.239,240
     昭和30年代末には沙流川の石が観賞石として注目されるようになり39年から貝沢末一、貝沢留治らが専業販売し始めた。なお二風谷から初めて販売された石は、昭和32年に登別温泉玉川商店のチセの前に飾られたものである。
     昭和39年1月には「日高銘石保存会」が設立され (会長貝沢正、会員発足時15人。昭和43年20人)、庭石、鑑賞石の採取と加工販売をしている者が中心となり、木彫りや土産品店を業とする者や石の愛好家が加わって、会員の親睦や原石の払下げ、加工技術の研究や道内道外市場の開拓などを行なった。
     昭和39年2月には、萱野茂・貝沢末一兄弟が二風谷の石を初めて津軽海峡を渡らせ、つてを頼って東京都世田谷区役所のロビーで展示即売会を開いて純益27万円をあげた。この利益は、二風谷部落会に寄附され、当時行なわれていた二風谷小学校の給食費3年分に充当された。



  • 民族派"アイヌ" として

  • アイヌ研究者として


  • 引用・参考文献
    • 萱野茂
      • 『おれの二風谷』, すずさわ書店, 1975
      • 『アイヌの民具』, すずさわ書店, 1978
      • 『アイヌの碑』, (朝日文庫) , 朝日新聞社, 1980.
    • 二風谷部落誌編纂委員会 (1983) :『二風谷』, 二風谷自治会, 1983

  • 参考Webサイト