Up Munro, Neil Gordon, 1863-1942 作成: 2017-03-22
更新: 2019-02-18


    1916  53才。この頃からアイヌを研究対象に (それまでは先史時代が研究対象)。
    1923  60才。関東大震災でアイヌ研究資料を焼失。
    1929  66才。日本で Munro に会った C.G.Seligman が,帰国後ロックフェラー財団に Munro への研究費支給を申請。
    1930  研究費申請が受理される。
    アイヌ研究のため二風谷に4か月滞在。
    1931  平取に転籍し,二風谷で無料診療所開設。
    1932  自宅建築中,仮泊住居全焼 (医療器具,研究資料の多くを焼失)。
    1933  C.G.Seligman がロックフェラー財団に Munro への研究費支給を申請し,受理される。
    1937  74才。 診療所正式発足。


  • 「アイヌ」に関する著書
    • Ainu Creed And Cult
      • 1938 : Prof.C.G.Seligman への原稿送付を終える
      • B.Z.Seligman [編] : Ainu Creed And Cult, 1962
        • 出版
          • Routledge and Kegan Paul /London
          • Columbia University Press /NewYork
        • Seligman, B.Z. : Preface
          渡辺(ひとし) : Introduction
      • 小松哲郎[訳]『アイヌの信仰とその儀式』. 国書刊行会. 2002

"Ainu Creed And Cult", p.31

右は,貝澤イソンノアシ (着物が正装に使われている)


  • Ainu Creed And Cult について
    この著は,学術的なアイヌ研究には使えない。
    Munro は,《アイヌの観念世界を二風谷の年寄りに尋ねる》を,この著でやっている。 しかし,観念世界は,このような方法で知られるものではない。

    例えば,観念世界を知るという目的で,或る儀式の意味を尋ねる場合を考えてみよう。
    儀式は,ロジックで進行するのではなく,形式で進行する。
    その形式のロジックをいまさら尋ねられる者は,個々それぞれ自分の勝手な解釈・その場の思いつきを述べるだけとなる。

    アイヌの精神世界の研究では,久保寺逸彦のものが優れている。 ( 久保寺逸彦)
    久保寺と Munro の何が違っているかというと,久保寺の研究は「祈詞」をベースにしている。
    アイヌの祈詞は,アイヌの精神世界を構造的に表現している。
    儀式は,この構造と整合するものとして観察・解釈するところとなる。
    儀式の当事者がどんな思い・解釈でそれを行っているかを尋ねるのではない。

    消滅寸前のアイヌ文化をかろうじて記述に留め得たものに,J. Bachelor の The Ainu and Their Folk-Lore (1901) がある。( J. Bachelor)
    Munro が二風谷に入ったのは 1930年 (通い出したのは 1920年代) であり,その頃は既に「言語風俗が完全に同化し切った」(貝沢正, 1931) ときであった。( 「貝沢正 20才」) しかし,二風谷住民の生活を Bachelor のように記述していてくれたなら,アイヌ終焉後のアイヌ末裔の状況を伝える貴重な研究資料になったはずである。
    惜しむべし。

     註: Munro はアイヌ文化を映像に記録することをやっているが,二風谷の当時の状況を鑑みて,その映像は<やらせ> (「再現」) によると見ることになる。


  • 二風谷の状況──明治政府発足以降,Munro が二風谷に入った時期まで
    『二風谷』「第3章 二風谷歴史年表」から抜き書き:
     
    1870 32戸,140人
    1880 バッタによるヒエ,アワの被害おびただしかった。
    <二風谷村の産物> アツシ,シイタケ,シカ (42頭),他熊(12頭)
    1885 13.9町 (36戸) ──1戸平均約4反耕作
    1892 二風谷小学校 (修業年限3年) 開校
    1893 貝沢ウエサナシ・貝沢ウトレントク,くるみ・桂材で盆や茶托を彫り,札幌で販売。 ──二風谷民芸品販売の初め。
    1895 松崎順吉,二風谷に18町余を購入し居を構え開墾を始める。──二風谷和人農業耕作定住の初め。
    1897 人口53戸, 157人 (内和人8戸, 38人)
    1898 畑流失。
    1899 旧土人保護法 (この年公布) により給与された土地52戸, 1戸平均 2.8町。
    松崎順吉,水田1反歩初めて試作。
    1904 松崎順吉,果樹植栽を始める。
    1910 人口67戸, 297人 (内和人19戸, 83人)
    1914 二風谷青年会,北海道長官より表彰。
    1916 二風谷小学校,旧土人保護法による小学校となり,修業年限4年となる (児童数42名)。
    1919 商店,松崎・鎌田2軒。
    1922 8/24〜25,沙流川二風谷附近で大氾濫,耕地流出。
    生活困窮者続出,造田計画頓挫し,男は造材人夫として,女は飯場の飯炊きとして出稼ぎに出る者多くなる。
    1929 小学校,二学級編成となる。児童数79名
    1930 人口447人 (内和人166人, 37%)
    1931 貝沢正,全道アイヌ大会 (バチェラー主催) に参加。
    凶作で畑作平年の5分以下。
    1932 2年連続凶作。生活困窮者続出。多くが造材山に入る。
    1934 冷害。
    貝沢与次郎,乳牛飼育を始める。
    1935 人口649人 (内和人276人, 43%)
    8/24 沙流川氾濫,凶作と水害で生活困窮を極める。



  • 参考Webサイト
  • 参考/引用文献
    • 二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    • 貝沢正 (1931) :「土地保護施設改正に就いて」, 蝦夷の光, 第2号, 1931. pp.22-24.
    • 出利葉浩司 (2011) : マンロー・テクストはなにを「返還」するのだろうか──マンロー関係資料デジタル化プロジェクトの今日的意義, 国立歴史民俗博物館研究報告, 第168集, 2011, pp.63-82
    • 岡田一男 (2011) : ニール・ゴードン・マンローの 1930年代アイヌ民俗誌映画への取り組み──ウウェポタラ(悪霊払い)の記録を中心に, 国立歴史民俗博物館研究報告, 第168集, 2011, pp.119-150