- 『辺境最深部に向って退却せよ』, 三一書房, 1971.
- 『アイヌ革命論──ユ-カラ世界への〈退却〉』, アイヌ共和国情報部 (新泉社), 1973.
- 「アイヌの復活、和人の滅亡」『映画批評』1971, 9月号.
- 『辺境最深部に向って退却せよ』, 三一書房, 1971. pp.192-209.
- Cf. 「アイヌ革命の視点」, 『近代民衆の記録月報』, ,
- 参考文献
- 本多勝一「シャモ系『撹乱屋』」, 『北方文芸』1972, 11月号, pp.110-112.
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このひとは『一本釣りの名手』とか、『撹乱屋』‥‥‥とかいわれています‥‥‥
『一本釣り‥‥‥』という意味は、何かの問題である運動のなかへとびこんでゆき、そこで一本釣りをすることなのだそうです。
つまり、彼の噴飯ものの "革命理論" をぶって、その運動のイニシアチブを握ろうと煽動してまわるのだけれど、馬鹿馬鹿しくてほとんど相手にしない。
けれども、ひとつの運動でたまに一人くらいは、つい彼の煽動のサオにひっかかる純情な人もいるため、『一本釣り』と呼ばれるとのことであります。
また、そのようにして運動を撹乱して歩くために、『攪乱屋』というのだそうです。
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ここで,「一人くらいはサオにひっかかる」は,「結城庄司」を指している。
また, 「攪乱」は, 「心あるアイヌは,御用アイヌ (ウタリ協会) を打倒せよ!」の物言いを指している。
- 佐々木昌雄「映画「アイヌの結婚式」にふれた朝日新聞と太田竜」, 『亜鉛』, 第12号, 1971.9
『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.105-123
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p.120.
筆者太田竜が考える「アイヌ」とは何か、そして「アイヌの復活」とは。
例えば、次の文章である。
一九七一年は、和人支配者に対する闘いの歴史において、きわめて重要な、記念すべき年となった。
一つは、この年の四月、小山妙子と貝沢三千治のアイヌ風結婚式が、八十年ぶりに復活したことであり、二つは、日高支庁静内町にシャクシャインの銅像が立てられ、この秋、アイヌ同胞の集会が聞かれることである。
前者は、同胞の心をゆり動かす。
後者は、和人に対する武装闘争を呼びかけるかすかな合図である。
和人との混血がすすみ、「同化」の道をふかくすすんでいる五万人のアイヌが、一億一千万の人口をもち、いまや世界第三の経済大国となった日本帝国の権力に対して、再び、武器をもって立ち上る。
白昼の夢と、俗物は言うだろう。
このかすかな武装反乱の合図を聞きとるためには、私たちは,超越者としての心的能力を必要とする。
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私には「超越者の心的能力」がないから、「武装反乱の合図」は聞えない。
けれども、太田竜の想いがなんであれ、また「アイヌ」に対して「武装反乱」を仮託しようとあずかりしらぬが、ただ「アイヌ」に関する事実についてだけは譲れない。
何故なら、それは私自身の「闘争」に関わるからだ。
太田竜に問う。
「和人との混血がすすみ "同化" の道をふかくすすんでいる五万人のアイヌ」とは誰か?
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ここで,太田竜の「後者は、和人に対する武装闘争を呼びかけるかすかな合図である」のリクツは:
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太田竜「アイヌ武装反乱の微かな兆し」,『映画批評』,1973, 1月号.
太田竜『アイヌ革命論』収載. pp.226-242
p.241
シベチャリのとりで跡を、シャクシャイン像をいとぐちにして、アイヌの聖地とすること。
アイヌの復権の闘いの聖域とすること。
この聖域を、拡大すること。
それが、すべてのアイヌ同族、及びそれに味方するすべての同志たちのひそかに考えている方向である。
これに対し、シャクシャイン祭りを北海道の公的秩序のスケジュールに組み込み、静内町役場が現に推しすすめているように真歌山を公園、遊園地として開発し、シャクシャイン像を偶像として市販し、千歳という北海道の玄関口に観光用の青銅の像を建てる。
それは、アイヌの聖域を解消してしまう、シャモ権力者の側の目的意識的な路線なのである。
‥‥‥
かくのごとく、シベチャリの山は、一九七O年九月、シャクシャイン像が建つことによって、必然的に、アイヌ復権の権力とシャモ権力の闘争の凝縮地点となったのである。
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- 新谷行『アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1977
- 谷口巌『アイヌ革命と太田竜』, 暁書房, 1983
- 参考Webサイト
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