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喜田 (1928)
二 蝦夷馴服の歴史
‥‥‥ 普通に歴史の示すところによりますと、むかし景行天皇の御代に当って、武内宿禰が勅を奉じて東国を巡察致しまして、蝦夷という変った民族の住んでいたことを復命致しております。
その蝦夷の国を日高見の国と申し、今の北上川流域地方に当るものの如く考えられておりました。
北上川という川の名も、昔は「日上」と書いて「ひなかみ川」とも申し、それがすなわち日高見川であったと考えられます。
かくて後日本武尊は、その日高見国を平らげて、蝦夷をお従えになりました。
これが我が古代史の上に、蝦夷の事の見えている初めであります。
その後蝦夷の征討、蝦夷の服従の事実は、たびたび歴史の上に見えておりまして、斉明天皇の御代には、阿倍比羅夫が大いに日本海方面の経営に成功して、今の北海道にまでも、遠征の手を延ばしました。
しかしこれはそのあとが続かず、今の秋田県の北部地方以北は再び蝦夷の手に放任することに成った様ではありますが、奈良朝のはじめには出羽国が設置せられ、引続き陸奥(今の陸前)に多賀城を置き、秋田城との連絡を保って奥羽地方の蝦夷の経営は、着々進捗して参りました。
蝦夷に対する経営の大方針としましては、勿論国家として威を以てこれに臨む場合のあるのはやむをえませんが、もともと懐柔政策を主としたもので、恩を以て誘い、徳を以て導き、彼らを日本民族に同化せしめるにありました。
さればその服従しましたものは、或いはこれを内地諸国に移住せしめ、二代間糧食を給与する程の優待をまで与えました。
またその特に勲功のあったものには、或いは位を授けたり、或いは郡司に任用したりなどしまして、大そう調子よく進んでいたのでありました。
しかるに奈良朝の末に至り、もと蝦夷の出身で、勲功によって外従五位下勲六等という位階勲等を賜わり、今の宮城県栗原郡地方にあった上治郡の大領に任ぜられていた伊治公呰麿というものが、これも家柄はもと蝦夷の流れであったと思われますが、早くから日本民族の仲間になっていた牡鹿郡の大領道島大楯という者から、相変らず蝦夷待遇を与えられるのを憤慨しまして、宝亀十一年に暴動を起し、按察使紀広純を殺すという大騒ぎになりました。
その勢強く、官軍容易にこれを鎮定する事が出来ません。
征東将軍紀古佐美が、今の江刺郡あたりの蝦夷と戦った際の如き、大軍を以て北上川を渡り、僅か八百ばかりの蝦夷の襲撃を受けて大敗し、戦死者二十五人、矢に中って負傷したもの二百四十五人に対して、溺死者千三十六人、裸になってやっと泳いで帰ったもの千二百五十七人という様な、大醜態を演じた程でありました。
かくて桓武天皇の延暦年間に、有名な坂上田村麿が出て参りますまで、二十数年間にわたった奥州の大乱となりました。
坂上田村麿の遠征は大成功でありまして、後世征夷の神として崇められるくらい、今の岩手県中部地方に頑張っておった蝦夷もこれには恐れ入ってしまいました。
そこで彼は胆沢城に鎮守府を設けて蝦夷地経営東北守備の根拠地となし、さらにその北の紫波郡の地に志波城を築きました。
おそらく今の盛岡市のあたりまでは、田村麿遠征の結果として、すべて服従した事であったでありましょう。
俗説では今の青森県七戸町の北方、坪村のあたりまで征服して、ここに「日本中央」と刻した石碑を立てたなどと云いまして、すでに平安朝頃からその説はあり、土地の人はその碑が埋まっている筈だというので、たびたび発掘を試みたりしましたが、そんな事はあるべき筈がありません。
その後十余年嵯峨天皇の弘仁の頃に、さらに文室綿麿が遠征しましたが、この時にはさきに田村麿が行かなかった奥の方までも参りまして、確かに今の岩手県の東北部二戸郡福岡町附近の、爾薩体、都母あたりまでは従えました。
この都母を、普通には今の青森県の坪村だと解しておりますが、これはやはり爾薩体附近の地名です。
この遠征の結果として、今の岩手県の中部地方、和賀、稗貫、紫波の三郡を設置しました。
けだしこの辺までは、完全に帝国の版図に加わったのであります。
しかしこの頃から、だんだんと中央政府における貴族政治の弊害が甚だしくなり、地方の政治は紊れて、蝦夷に対する睨みが利かなくなりました。
のみならず、上に傚う下で、地方官はかえって蝦夷人を虐待して、私利をのみ図るという有様でありましたから、一旦従っていたものもだんだん背いて参ります。
綿麻呂の頃から五六十年後の陽成天皇の元慶年間には、出羽方面において、今の秋田県地方の蝦夷が国司の悪政を恨んで暴動を起し、国司も如何ともする事の出来ない程の大騒動となりました。
この時の蝦夷側の要求に、秋田川すなわち今の御物川から北の地方を以て、蝦夷の国として認めてもらいたいと云っているのを見ますと、ほぼその頃の日本領と、蝦夷の国との勢力範囲がわかりましょう。
もっともこの暴動は、国司の悪政の結果でありますから、藤原保則という善良なる地方官が赴任しまして、善政を施しますと、蝦夷もたちまち従順になりまして、さしもの大乱も無事に鎮定してしまいました。
この元慶の出羽の乱を最後として、直接蝦夷に関する事蹟は、中央の記録にはあまり多く見えてはおりません。
しかしこれは蝦夷の勢力がなくなって従順になったとか、蝦夷が消えてしまったとかいう訳ではありません。
国家の威力が衰えて、蝦夷に対してもそう圧迫を加えることも出来ず、彼らの為すままに放任して、その我儘をも黙認していたが為に、わざわざ記録に上ぼす程の事が起らなんだのでありましょう。
実際は、国司の政治が紊れるに従って、蝦夷の方はかえって勢力を恢復し、これまで立派に日本の国家に属し、郡役所を置いてあった地方までが、蝦夷に取り返されて郡を廃止するところがあった程であります。
それと今一つは、中央政府の政治が紊れて、国家で国史を編纂することも無くなったが為に、少々くらいの事柄は伝わらなくなってしまったということもありましょう。
この元慶の乱から二三十年後、延喜の頃に藤原利仁、すなわち有名なる利仁将軍が、大いに蝦夷を征伐して、昔の坂上田村麻呂、すなわち田村将軍と相比すべき程の、征夷の勇将として伝えられているのでありますけれども、その征夷の事蹟は一向にわからないのであります。
その後大いに飛んで、六百余年を経過しました鎌倉時代の末頃に、津軽に蝦夷の乱が起ったという事実があります。
これは鎌倉幕府の威力を以てしても、容易に鎮定することが出来なかった程の、盛んなものであったらしいのですが、その詳細なことはわかりません。
またそれまで六百余年間、本州の蝦夷はどうなっておったか、またその後どうなったものか、普通の歴史では一向問題になっていないのであります。
三 遺物遺蹟より見たる蝦夷
しかしながら、この問題になっていない間の事柄が、実は日本国家の発展、日本民族の繁延の顛末を知る上に、最も必要なのであります。
問題になる程の大事件と申しますと、大抵は戦争でありますが、前にも申した通り、国家の蝦夷に対する経営の大方針は、武力によってこれを圧迫するというのではなくして、懐柔政策によってこれを日本民族の仲間に入れようというのでありますから、戦争は畢竟平和手段の破綻から起った、一時の変態的現象でありまして、戦争のない、平和な時代、すなわち歴史上の問題となっていない間において、彼らはたえず日本民族に同化融合しつつあったのであります。
そしてついに本州には、一人の蝦夷も存在しなくなってしまったのであります。 ‥‥‥
四 北海道のアイヌ民族
さらに眼を転じて、今の北海道について観察しますると、この島はむかし蝦夷が島と呼ばれた程で、主として蝦夷人が住んでいるところでありました。
そこへ内地から続々移住者があります。
初めは渡り党と申して、もとは同じ蝦夷の仲間ではありますが、早く奥羽地方において日本民族と接触し、日本の風俗をなし、不充分ながらも日本語を話す様になっていた人々が、その西南端渡島の海岸地方に移住しました。
そのほかにも、商業漁業の利を求めて、内地から出かけたもの、仏教を拡める為に、内地から渡海した僧侶、或いは罪を犯して流されたものなども、無論ありました。
これは主として鎌倉時代以来のことでありますが、明治以来ことに移住者が多くなり、ついに今日の状態を呈する様になったのであります。‥‥‥
五 近世まで保存せられた本州の蝦夷
しかるに普通に歴史の説いているところでは、蝦夷人の存在は殆ど奥羽地方にのみ限られ、時代も平安朝頃まで、それも主として田村麻呂や綿麻呂の征伐が最後になっているのであります。 ‥‥‥
そんな次第でありますから、歴史時代の蝦夷と今の北海道のアイヌとの間に連絡がつかないのも無理はなく、いわんや石器時代の住民と、蝦夷やアイヌとの間の関係の明らかならぬのも、実際やむをえぬ次第でありました。
‥‥‥
私が先年来東北地方に参りまして、その実地を調査し、その地方的史料を調べてみますると、案外にも後の時代にまで、奥羽北部地方にはなお蝦夷が遺っていたことがわかりました。
もっともその実地につかずとも、徳川時代までも津軽の北方海岸に蝦夷がいたということは、いろいろの人の旅行記その他のものに書いてありまして、或る程度まではわかっていたのでありましたけれども、さらに実地について、その土地の人の話を聞きますと、近い頃までこの地方には蝦夷がいただの、あの部落は蝦夷の子孫じゃそうなだのという話を伝えているもの、或いは具体的にあの家は蝦夷の子孫じゃなど言わるるものの、実際少からぬには驚かされました。
しかしそれはただお話であって、確かな証拠はありませんが、津軽藩の記録によりますと、今から約二百六十年前の、寛文頃に、まだ領分内に蝦夷として認められたものの居た村が、外が浜に十六ヶ村、その蝦夷の戸数が四十二軒、その名前までが一々わかっているのであります。
その後八十六年を経た宝暦六年に至って、彼らもだんだん日本化して参りまして、もはやいつまでも蝦夷として区別する必要が無いと認めたものとみえまして、これを平民の戸籍に編入し、普通の日本人と同一の待遇を与えることになりました。
それを当時の記録には、「この年外が浜の狄シャモとなる」とも、「外が浜の狄をシャモに仕る」とも書いてあります。
シャモとは今も北海道のアイヌ等が、日本人を呼ぶ名称で、すなわち狄が日本人になったのです。‥‥‥
それまでにも彼らは、余程日本人風になっていたと見えまして、寛文頃においてすでに彼らは、名前なども大抵は日本人と同じ名をつけていました。
藩の記録ではそれを区別する為に、時としてその名の下に犬という字をつける。
万五郎ならば「万五郎犬」、林蔵ならば「林蔵犬」というのです。
「犬」はすなわち「アイヌ」の略で、万五郎が二人ありますと、一人は「万五郎犬」、一人は「万五郎逢犬」という風に、呼びわけておりました。
その「犬」や「逢犬」の文字を戸籍の上から取ってしまいさえすれば、彼らは直ちにただの万五郎、ただの林蔵になって、シャモになってしまうのであります。‥‥‥
六 蝦夷と日本民族
‥‥‥ これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。
しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。
その事実の中で最も著しいのは、前九年役の安倍氏、後三年役の清原氏、平泉で繁盛を極めた藤原氏から、遥かに時代が下って鎌倉室町時代の頃に、津軽地方に勢力を有して日の本将軍と呼ばれた安東氏などで、‥‥‥ 安倍氏は崇神天皇朝四道将軍の一人なる大彦命の後裔、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔、藤原氏は申すまでもなく大織冠鎌足の子孫田原藤太秀郷の後裔ということになっているのです。‥‥‥
八 蝦夷と武士道
‥‥‥ 蝦夷を古語に佐伯と申しました。
その佐伯を徴発して、宮門護衛の兵士に採用しましたものを佐伯部と申し、大伴氏の一族佐伯宿禰に率いられて、大伴部の兵士とともに天皇をお護り申すお役をつとめておりました。‥‥‥
佐伯は国家の干城として、ひとり大君にのみ忠誠であるばかりでなく、貴紳豪族の従者として、その主人と頼んだ人の為には、また甚だ忠実な家来でありました。‥‥‥
九 東人
‥‥‥ この佐伯部も、実際上異民族たる蝦夷として徴発されましたのは、極めて古い時代の事で、時代が下るとともにだんだんと彼らは日本民族に同化融合してしまいます。
またその郷里においても、異民族として固有の生活を為している蝦夷はだんだん減少して、大抵は日本民族に同化融合してしまい、遠く奥羽地方の、それも余程奥まで行かねば、もはや異民族としての蝦夷はいなくなりました。
それ故に、佐伯部として蝦夷を徴発することは、いつとなく無くなりまして、その代りに東国人が徴発されます。
これを東人と申しました。‥‥‥
東人は勿論蝦夷ではありませんが、もと蝦夷人の国であった東国の住民であります。
彼らの中には内地の移住民の子孫も多いではありましょうが、わざわざ蝦夷の地へ出かける程のものですから、いずれ択ばれた勇者が多かった筈で、また無論もとから居た蝦夷の血も多く交り、同じ日本民族と申しましても、比較的蝦夷の影響を被ることの多かった質樸な田舎人でありました。
すなわちこの東人は、要するに佐伯部の延長と申してよろしいのであります。‥‥‥
この武士の事を、中世ではエビスと云っておりました。
夷すなわち蝦夷という程の厳格な意味でもありますまいが、もともと武士になったものには蝦夷の流れの人々が多かったということと、今一つは、蝦夷は本来武士道的な、質樸な、田舎者でありましたから、田舎に発達した所謂武士は、あのエビスの様な人々だということで、そう呼んだのかもしれません。
十 武士の起原と蝦夷
‥‥‥ここに私設の軍人が出来たのであります。
そこでその従者となったものの事ですが、この問題に関連して、武士すなわち夷という事実が起って来るのであります。
前に繰り返し述べた通り、国家の蝦夷に対する政策は、なるべく懐柔の手段を取りまして、これを日本民族の仲間にしてしまおうというのでありますから、服従しました奥羽の蝦夷は続々これを内地諸国に移住させます。
本来の目的は、これを農民と為すにありまして、中には成功して富有なものになり、飢饉の際に多くの穀物を義捐して窮民を救い、位階を授けられたという様な気の利いたものもありますが、多数は祖先以来狩猟漁業に活きた浮浪的の慣習が、一朝にして改め難く、かえって地方人の厄介者になるという場合も少くありませんでした。
ところでそこは所謂御方便なものでありまして、この社会の混乱時代に際しては、所謂適材を適所に用い、彼らを軍隊なり、警察なりの補助に用うるということになりました。
もともと勇猛にして死を恐れず、武士的な特質を持っているものでありますから、これは全くはまり役です。
今から千六十年ばかり前、貞観十一年に、新羅の海賊船が二艘やって来て九州博多の海岸を掠めた時の如き、太宰府の軍人は臆病で誰もよう出かけない。
やむをえずその頃附近に移住していた蝦夷人をさしむけましたところが、彼らは一以て千に当るという勢いで、容易にこれを撃退することが出来ました。
これから太宰府海岸の防禦には、蝦夷人をして当らしめるということになりました。
海賊が起る。
蝦夷をさしむける。
山賊が手に合わぬ、蝦夷をさしむける。
貨幣偽造者を捕えるにも、蝦夷に命ずるという様な有様で、国家の治安は内地移住の蝦夷によって保たれる場合が少くなかったのであります。
かくの如き有様でありますから、昔の佐伯部が貴紳の忠実なる従者であった様に、内地に移された蝦夷の子孫らが有力者の家来となり、得意の武芸を練磨して、その主の為に護衛の任に当るということは、彼らにとって最も適当なる職業であった事は申すまでもない。
その主人たるものから申しましても、臆病で間に合わない内地の百姓どもよりも、内地人に交っては、むしろ厄介者であるところのこの忠実なる勇者を使役する方が、どんなに好ましかったか知れませぬ。
勿論かかる混乱の際の事とて、純粋の内地人でも元気の盛んな人々は、好んで武士に走ったではありましょうが、内地移住の蝦夷の流れを受けた人々が、初期時代の武士になったことのことに多かったのは疑いを容れませぬ。
平安朝頃の武士の理想的風采としましては、鬚が濃く、眼が鋭どいという、アイヌ的容貌の持主でありまして、ただ見ただけでも、いかにも強そうな感じが起ったのであります。
こう観察致しますと、武士と蝦夷との間に切っても切れぬ関係のあることがわかりましょう。
勿論純粋の内地人で武士になったものも多かったには相違ありませんが、どうで田舎者を馬鹿にしている都人の目から見れば、彼らもやはり夷の仲間として、一般的に武士を夷と呼ぶことになったに無理はありません。
かくてだんだんその武士が勢力を得て参りまして、遂には多年専横を極めた貴族に代って、武家政治を起すに至ったと申すことも、見方によっては蝦夷が日本民族と形をかえて、多年腐敗の極みに達していた貴族政治を滅して、我が国の政権を掌握することになったのだと申しても、甚だしい過言で無いかもしれません。
十一 結語
本州における蝦夷‥‥‥は滅亡したのではなく、日本民族の中に混入してしまって、その蹟を絶ったのであります。
特に彼らが武士となって、我が日本民族中堅の階級を形作り、従来腐敗堕落の極みに陥入っていた我が国家、我が社会に対し、回生の良剤を注射してその立て直しをなすに至ったということは、我々の大いに注意すべき点であると信じます。
ともかくも本州における蝦夷は、ことごとく日本民族の中に混入して、その民族的存在を失ったのであります。
そしてその形を日本民族に変じて、国家の為に、社会の為に、重大なる働きをなしたのであります。
私どもは私ども日本民族の中に、少からぬ蝦夷の血の流れていることを以て光栄に存じているのであります。
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- 引用文献
- 喜田貞吉 (1928) :「本州における蝦夷の末路」
- 東北文化研究, 第1巻第4号, 1928 (昭和3)
- 青空文庫
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