仏教徒は,人形の神格的存在を欲する者であって,人形の神格的な存在にブッダをあてはめる者である。
仏教徒は,合掌や礼拝を疑問に思わない者である。
仏教徒は,経を──内容を不問にして──ありがたがることのできる者である。
仏教研究者は,「仏教研究者は仏教徒である必要はない」という論理で,仏教徒とは区別される。
しかし,大量の仏典を相手にしていくことは,仏教への思い入れ無くしてはできないことである。
なぜなら,それら大量の仏典は後代の者の創作であって,僅かな原始仏典の中の僅かなパラグラフを除いては,ブッダを伝えるものではないからである。
仏教研究者は,生老病死が苦 (「四苦」) であることを受け入れる。
そして,ブッダはこの苦を乗り越える智慧を得るための修行を志して出家した,とする。
ブッダ読みは,ブッダは人の世のわずらわしさから脱けるために出家した,と読む。
ブッダ読みにとって,生老病死はアタリマエのことである。──「苦」と定めそして乗り越えるための智慧を求める,というものではない。
仏教研究者は,ブッダは俗人には窺い知れない高みに到達したのだとする。
ブッダ読みは,ブッダの悟りの内容は存在論 (物理) であり,「空・因縁」を根本概念にするこの存在論は今日の科学に回収されるものである,と読む。──「空」は「存在の階層」理論に,「因縁」は「場」や「複雑系」の理論に,それぞれ回収されるというぐあい。
仏教研究者は,ブッダは苦を乗り越える智慧を得た,そしてその智慧を以て衆生を救済した,とする。
ブッダ読みは,ブッダは我執を無意味にする存在論を得た,そして話が通じる者たちと議論して理論をブラッシュアップしていった──特に,衆生の救済とは無縁──,と読む。
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Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga, 6.1.1 (中村元訳)
一 |
わたくしはこのように聞いた。
あるとき尊師は、ウルヴェーラー村はネーランジャラー河の岸辺で、アジャパーラという名のニグローダ (パニヤン) の樹の根もとに留まっておられた。
初めて目覚めた人になられたばかりのときであった。
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二 |
そのとき尊師は、独り隠れて、静かに禅定に専心しておられたが、心のうちにこのような思いが起こった。
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三 |
『わたくしが知ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。
さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人々には、これがあるときに ということ、すなわち縁起という道理は見がたい。
またすべての記憶や意志などの心の作用がしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、安らぎというこの道理もまた見がたい。
だからわたくしが教えを説いたとしても、もしもほかの人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。わたくしには憂いがあるだけだ』と。
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四 |
じつにつぎの、いまだかつて聞かれたことのない、すばらしい詩節が尊師の心に思い浮かんだ。
『苦労してわたくしが知ったことを、
今説く必要があろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
この真理を知ることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ』と。
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五 |
尊師がこのように省察しておられるときに、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった
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引用文献
- 中村元 (1986) : 中村元[訳]『ブッダ 悪魔との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 4〜11)』, 岩波書店 1986
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