Up 「五感」? 作成: 2020-12-14
更新: 2020-12-19


    動物の感覚についての諸説は,先ずは疑ってかかるべきである。
    研究者は,自分が思い描けることを説くのみだからである。

    ひとは,感覚を「五感」で考える。
    他の動物の感覚が「五感」かどうかはわからないことである。
    ひとは,「五感」でない感覚を想うことができないからである。

    例えば,鳥の回帰能力。
    研究者はこれを「目に見えている天体を読み解く能力」にする。
    「目に見えている天体を読み解く能力」にしてしまうのは,たかだか「五感データの脳処理」でしか考えることができないからである。

    魚の回帰能力も,ひとは「五感データの脳処理」でしか考えることができない。
    「五感データの脳処理」で考えると,鳥の場合の「目」は使えないから,「鼻」とかにしなければならなくなる。
    「収斂進化」というのがあるので鳥の回帰能力と魚の回帰能力が整合する必要はないとはいえ,まったく系統性のない内容に仕立てるのはやはり不自然である。


    こうして,「五感」とは違う感覚の存在を想いたくなる。
    荒唐無稽と受け取られるだろうだが,「帰る方向が光って見える感覚」のような。

     想像:
       地上からは,電磁波が発せられている。
    そして,土地ごとに波形が異なる。
    人が「可視光線」と呼んでいるものは,電磁波の一部分に過ぎない。
    回帰する動物は,「可視光線」を超える閾を感覚できる。
    生地に居る間に,この感覚を生地の電磁波形にチューニングする。
    そして生地を離れる。
    生地への回帰は,生地から発せられてくる電磁波に導かれて,実現する。
     註: 電磁波には,微弱でも検知できるという特性がある (シャノンの「情報理論」)。


    実際,ハシボソガラスの「貯食した場所への回帰能力」は,こんなふうでないとすればどう考えればよいのか,ひとにはわからない。
    ハシボソガラスは,草むらのあちこちに貯食をし,後でこれらを取りに帰ってくる,ということができる。
    ひとは,草原の数か所に物を置き,後でそれを取りに帰ってくる,ということはできない。
    ひとの回帰能力は「目に見えている景色を読み解く能力」であり,そして草原の中の地点をひとは視覚データ化することができないからである。──実際,少し目を離したら,どこであったかまったくわからなくなる。