Up <大災害を思想する> : はじめに 作成: 2016-04-16
更新: 2016-04-17


    生は,無常である。
    思想は,この無常観が契機である。
    災害・死は,「無常」の主要な内容である。
    災害・死は,思想を生む。

      「 ゆく河の流れは絶えずして、
    しかももとの水にあらず。
    よどみに浮かぶうたかたは、
    かつ消えかつ結びて、
    久しくとどまりたるためしなし。
    世の中にある人と栖(すみか)と、
    又かくのごとし。


    「大災害」の思想は,「観念」である。
    「観念」の内容は,「運不運」「他人事」である。

    思想の遍歴は,「観念」に至る。
    しかし,「観念」は自明のことである。
    はじめから感じていたことである。
    ただ,人間というものは,この直感を抑圧し,智に迷い,そして迷いから脱けて,愚に戻るという一循環をするようになっている。
    遠回りの果てに,「大智如愚」を知る。

    災害を抗うものとするとき,災難はのがれられないものになる。
    災害を抗うものとしないとき,災難は「のがれる・のがれない」のものでなくなる。
    災害は,「のがれる・のがれない」で思うものではない。

      「 災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。
    死ぬる時節には死ぬがよく候。
    是はこれ災難をのがるる妙法にて候。


    災害・死は,思想を生む。
    ──本来ならば。

    商品経済に,思想は合わない。
    商品経済が普くところは,思想が生きられないところである。
    大災害も,思想の契機とはならない。

    商品経済の系は,資源蕩尽の系である。
    「発展」は,資源蕩尽能力の発展である。
    この発展は,人を夜郎自大にし,己の分際を忘れさせる。

    資源蕩尽は,早晩行き詰まる。 ( 「商品経済は10年刻みの自滅曲線を描く」)
    地球温暖化阻止」などと地球の主人気どりの口をきいているが,実際は,「温暖化効果」がどんなふうかを目撃できる前に,人間は滅亡することになる。
    人間にとって,資源蕩尽に行き詰まることは,滅亡することである。
    人間は,このような生き物となることを,自身の進化にしてきた。

    人はいま,自分を地球の何様かのように想うに至っている。
    あちらもこちらも,「バベルの塔」の土木工事である。

    大災害は,この「バベルの塔」建築をペチャンコにする。
    しかしいまは,人がここから思想に向かうということはない。
    「復興」を唱え,もっと丈夫な「バベルの塔」の建築へと向かう。


    「バベルの塔」の効用は,これの下敷きになって死ぬというものである。
    「バベルの塔」づくりを自分の定めにした人間は,これの下敷きになって死ぬのもまた定めである。

    人間は,丈夫な世界の構築を進化の方向にしてきた。
    <丈夫>が,人間の倫理である。

      「三匹の子豚」はこの倫理を説く話である──家をわらでつくる長男豚と木でつくる次男豚は愚,レンガでつくるいちばん下の豚は賢。

    <丈夫>の倫理は,他の生物との比較で,見えてくるものである。
    人間は,<丈夫>を用いて,<災害を撥ね返す頑丈さ>をデザインする。
    対して,生物のふつうは,<災害を受け流す柔軟さ>をデザインする,である。


    地球が貧乏揺すりをしたら,動植物は全滅する。
    実際には,地球の動きは極々慎ましい。
    地球のスケールからすると,極々々微々たるものである。
    ただ,この極々々微々たる動きも,人には「大災害」になるというわけである。

    生き物は,地球の運動の賜である。
    「大災害」は,「生かされている」の含蓄である。
    ひとはこれを観念する。
    観念の内容は,《「運不運」「他人事」を適切に用いる》である。

    ひとは,本来,これができる。
    しかしいまは,「大災害」に際すると,「運不運」「他人事」を適切に用いることを抑圧し,欺瞞を創作し,この欺瞞で自縄自縛となり,不自由になる。

    自由の回復の形は,<観念の回復>である。
    そして,<観念の回復>を行うものは,思想である。
    実際,思想の役どころは,こんなところである。
    高々こんなところである。

    しかし,「大災害」に際すると,思想も死ぬ。
    高々こんなところの役どころも,務められない。
    欺瞞に同調・埋没するばかりとなる(註)


    註 : わたしの世代だと,この絵図を衝撃的に示した者として吉本隆明を知っている。

    吉本は,平和時には高尚なことを宣っている知識人が,戦争時には率先して愚にも付かない戦意高揚物をせっせとつくったのは何故だろう,と考えた。
    この問いが,彼の思想を生成する。

    ただ,吉本は,<反対の反対 → 肯定>をやって,失敗した者である。
    <知識人>への反対を,<大衆>の肯定にする。
    <知識人>がする反核運動への反対において,科学の肯定を用いる。
    そして,<知識人>がする社会批判に反対するために,商品経済 (「資本主義経済」) の肯定に行ってしまう。

    <反対の反対 → 肯定>の失敗をしない方法が,「現成」──「是非もなし」──である。
    吉本も,『最後の親鸞』では「是非もなし」を用いる者である。
    しかし,吉本は知識人批判で名を上げてしまった者である。
    人の批判をする者は,自分を引っ込みのつかない格好にしてしまう者である。
    あるいは,引っ込みのつかなさを自分のアイデンティティーにしてしまう者である。
    このことがよく見えるのが,『情況への発言』である。
    この中で吉本はグチャグチャになっていく。
    『「吉本隆明」とは何か?──「なぜ書くか」について』