企業は,商品を売って利益を得ることで,企業をやっていく。
企業は,同種企業と競争している
他企業の商品より売れる商品を,実現していかねばならない。
これが「新商品開発」である。
新商品開発は,他の企業の商品と違ったものをつくることである。
「差異をつくる」が,行うことである。
この差異が消費者に気に入られると,商品は売れる。
企業は,これによって利益を得る。
しかしこの差異は,他の企業によってすぐに埋められる。
差異が埋められるまでの期間が,新商品で稼げるときである。
差異が埋められたら,また差異をつくるのみである。
競争に勝てる新商品を捻り出す。
これが,同種の企業それぞれで行われる。
競争は熾烈である。
企業は,新商品開発を永久運動にする。
これが「商品経済」である。
「売れる」に,「消費者の需要にマッチ」の意味はない。
「売れる」は,単に「消費者が買う」である。
「買う」は,「買いたい/買ってもいいと思うから買う」である。
「必要としていたものがそこにあるから買う」である必要はない。
新商品開発は,消費者に買いたい/買ってもいいと思わせる商品の開発である。
「売れる」は,「良い」とは別のことである。
「新商品」の「新」は,「向上」「改良」を意味しない。
このことは,「新商品」の「新」の内容が「くだらない」「無駄」になっているような事例によって,確認される。
そこで,長い引用になるが,[福岡正信, 2004 :『わら一本の革命』, 春秋社] の中のつぎの文章をここに引く:
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果物はさんざんな目にあっている
海の汚染公害問題を,陸の例でいえば,百姓が作る食品の汚染公害の問題ということになりますが,こういうものをですね,百姓がそれを防ぐ,あるいは,百姓を指導する技術者の手によって,それが解決できるように思っている。
ここらあたりが大きな錯覚なんです。
たとえば,ここにある,このミカンでもですね,その他の果物でも,みなそうですが,薬をかけない果物を作ってくれとか,汚染しない米を作ってくれ,ということを消費者は言いますけれど,どうして,薬づけのような果物が出てきたかというと,一番最初の原因は,消費者の側にあるわけです。
消費者は,形の整った,少しでもきれいな,少しでもおいしい,少しでも甘味の多いものを要求する。
それが,そのまま百姓に,いろんな薬を使わす原因になっているんです。
このミカンなどでも,ここ五,六年前,食品公害が叫ばれ始める頃までは使われなかった薬が,ここ数ヵ年の聞にも,どんどん使われ始めている。
食品公害を叫べば叫ぶほど,多くの薬品を使わなければならないことになってきているわけです。
どうして,そんなばかなことが起きるのか。
自分たちは,真直ぐなキュウリを食べる要求をしてもいないし,そんなに,外観のきれいな果物を要求しているわけでもない,ということを言いますけど,実際に東京の市場なら,東京の市場に出して,それが店頭に並べられたときにですね,ここにちょっと外観のいい物と悪い物とがあった場合,どのくらいの差がつくかということなんです。
甘味度でいえば,糖度が一度増すごとに,それこそキロでいえば,十円,十円の高値がつく。
大・中・小でいえば,一つの階級があがるたびに,二倍,三倍になる。
玉が大きいということだけ,あるいは,糖度が一度か二度増すことによって,また,外観にちょっとした汚れや斑点がある,ない,だけのことによって,値段というものは,二倍,三倍にもとぴあがる,というかっこうになってきている。
こうなれば,サービス業者としては,少しでも,都会の人が要求するものを売ろうということになるのは当然でしょう。
たとえば,夏,八月に,温州ミカンを出しますね,昨年あたりは,ばかみたいに,十倍,二十倍の高値がついているわけです。
だから,今年あたりは,ビニールハウスの中で,冬の聞に石油をたいて,もう,温室の中では,現在,花ざかりなんですが,こうして出来たミカンが,八月に出荷される。
そうすると,ふつう,キロ五十円程度しかしないものに,五百円,六百円,一千円という,べらぼうな値段がつく。
だから,十アールのミカン園にですね,いくら,数百万円の金をかけて,そういう資材を入れて,石油を燃やして,苦労してミカンを作っても,けつこう引き合うということで,さかんに,このごろやり始めてきているわけです。
ほんの一ヵ月,ミカンが早いということのために,何十倍の労力,資材を入れて作る。
しかも,それを平気で都会の人が買う,ということになっている。
しかし,一ヵ月早く食べるということが,人間にとってどう役に立つのかというと,実は,これは疑問であるばかりでなく,むしろ,マイナスじゃないかと思われるわけです。
また,数年前にはなかった,ミカンのカラーリング(色づけ)というのをやり始めた。
これをや一週間ばかり色づきが早くなります。
十月の十日前に売るのと,十日後に売るのと,十日か一週間の差によって,やっぱり値段というものが,倍になったり,半分になってみたりする。
そのために,一日でも早く色をつけたくて,着色促進剤をかけ,さらに採集後,密室に入れてガス処置がとられる。
さらに,早く出すためには,甘味が足りませんので,早く糖度を増そうとして,人工甘味剤が使われる。
まあ,ふつう,人工甘味剤っていえば,一般には禁止されているはずなんですが,ミカンに散布する人工甘味剤は別に禁止されていないようです。
これは,農薬のうちに入るか入らないかも問題だと思うんですが,とにかく,人工甘味剤がかけられる。
こういうふうにしておいて,さらに今度は,共同選果場へもっていって,大小を選別するために,一つ一つの果物が,何百メートルという距離を,ころころと,ころがされていく。
そのため,非常に打撲傷ができてくる。
大きな選果場になればなるほど,一つの果物が選別中に,長い間ころげて,汚れや打撲傷ができますから,その途中でまた,防腐剤がかけられ,着色剤がふきつけられるわけです。
その前にまた,水で洗浄される過程がある。
果物はさんざんな目に合います。
そして最後に,ワックス仕上げといって,パラフィンの溶液がふきつけられて,表面にロウがひかれる。
食パンなどには,流動パラフィンというのは禁止されているはずですが,こういう果物類につける流動パラフィンは,さしつかえあるのか,ないのか,知りませんが,やっぱり,そのままにされている。
これも,何のためかというと,店頭におかれて,ビニールの袋に入れるのと同じように,鮮度を保ち,二日も三日も,新しいとりたての果物のように見えるから,その見かけのために,パラフィンで光らせるわけです。
まあ,ミカン一つとりあげてみても,こういうような処置がとられているんです。
だからミカンを採集する直前から直後にかけて,また,出荷されて,店頭に並んで消費者の口に入るまでにもですね,もう五種類,六種類もの薬が使われる,というような状態になってきた。
で,これらは全く,消費者の方の,少しでも外観のいいもの,きれいなもの,大きなもの買おうという,ほんのわずかの気持ちが,百姓をここまで追いこみ,苦しめているというわけなんです。
労多くして功少ない流通機構
もちろん,こういうことは,百姓が好んでしているわけでもないし,指導者も,好んで百姓を苦しめようとしているわけではないんですが,一般の価値観というものが変わらない限りは,これをくいとめることはできない。
私が横浜税関にいた今から四十年も前に,アメリカではもう,サンキストのオレンジとかレモンとかいうものには,こういう処理がされていたんですが,それが日本に入ってきたときにですね,私はこういうことを実施することに大反対したわけです。
何かをなすことによって,世の中がよくなるんでなくて,むしろ,しないように,しないようにすることが,大事なことだというようなことを言ったんですが,そういう意見などは聞き入れられず,やっぱり実施されてしまった。
しかし,確かに,一つの組合,一軒の農家がですね,新しい手段をとれば,やっぱり,その年には,その工夫をしただけ,儲けが多くなる。
ところが,二年目になってみると,ほかの共選や農協だって黙って見ているわけではなく,すぐそれをまねてやりだす。
それで,二,三年すると,全国の果物に,ワックス処理がとられるようになる。
そうなると,ワックス処理をしていないのは安くなるが,ワックス処理をしているからといって,高く売れるわけでもない。
結局,数年たってみると,ワックス処理をしたから,値売りができたという現象はなくなってしまって,結局残るのは,ワックス処理をしなければいけないという,農家の労力,資材の負担だけというかっこうになってくる。
で,結局それが,消費者にとってはむしろ,害になる。
新鮮でもないものが,新鮮そうな見せかけだけで売られる。
で,こういうものは,もちろん,鮮度も落ちているから,ビタミンが破壊されて,随分なくなっていますし,味も落ちてしまっている。
これならむしろ,しなびている方がいいということです。
しなびているということは,生物学的に言えば,一つの消費エネルギーを最小限度にしている状態になっているわけでして,呼吸作用が停止に近い状態になっている。
ちょうど人間でいうと,坐禅をして,呼吸を最小限度にとどめると,消費カロリーも少なくなり,断食しておっても体力がおとろえない。
これと同じように,ミカンがしなびている,果物がしなびているということは,自己防衛のためであるし,そういうふうな状態になっても,果物自身の味は落ちなくてすんでいるわけなんです。
無理に見かけの鮮度を保ち,湿気を保つのが間違っているわけです。
店屋の前で見ていると,野菜の上にでもしょっちゅう水をうっていますが,こういう見せかけの鮮度を保つようなことをすればするほど,その植物というものは,生命活動が活発になって,自己消費をいたしますから,自分の肉を自分で食うことになる。
タコが自分の足を食うようなもので,結局,内容が乏しくなってきて,栄養もなくなるし,味も悪くなるというのが実状なんです。
ですから,見せかけだけにごまかされて,消費者は,高くてまずいものを食うという結果になってしまっている。
生産者の側も苦労して苦労して,しかも,二,三年たてば生産費が高くなっただけであるから,少しの手残りしかないということになる。
全く,労多くして功少なし,というわけです。
こういうことが現在,すべてについて,あらゆる分野で行われているわけですね。
あらゆる農協団体,あるいは共選組織でもですね,こういう無駄なことを強行するために統合されて拡大されてきた。
それを近代化のように思ってきた。
そして,大量生産して,流通機構に乗せる。
大量を,大きな市場へ運んで,大きなところで大衆に売りわたせば,生産者も合理化されて分業的になってくるから,安く生産できるし,消費者も安いものが食べられるように思う。
これが,大量流通機構の最初のうたい文句であって,そういうことはいかにもできそうに見え,うまい話に見える。
ところが,事実は反対になってくる。
大量に作れば作るほど,実は,生産者は泣かされるかっこうになるし,消費者は高いものを,しかも価値のないものを食べる結果になっていく。
本物は食えなくなって,にせ物を食わされるという結果になってくるんですが,そこの理屈がわからない。
ただ流通機構の改革というような観点だけから見ても,本物が流通しなくなって,生産者も消費者もどちらも苦労する結果におちいり,流通機構の改革の根本的原点というものを見失っている。
枝葉だけの改革をやっているうちに,根が枯れてしまっているわけです。
一言でいえば,美しい,うまい,大きい方がよいというような価値観の逆転がない限り,根本的解決はできないということです。
(pp.96-102)
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ここでよくよく理解すべきは,上文で否定的に書かれている内容は,商品経済のイデオロギーにおいては「善」だということである。
実際,「ベンチャー」とは,こういうことをすることである。
農業ベンチャーを推進しようとする行政,これの応援を自認するマスコミは,このような取り組みを,「農産物の付加価値を高める」「特産ブランド」等のことばを用いて,絶賛して取り上げることになる。
──これが,「商品経済」である。
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