Up | 商品経済社会,デザイン・テロ,教育 | 作成: 2008-09-22 更新: 2008-09-30 |
「デザイン」と「教育」のコンビネーションは,つぎの形が標準的である: これに対し,本論考が設定する課題は,つぎのものである:
商品デザインは,テロになる。 商品デザインのテロ性は,反照的に,教育の役割を問う。 このときの教育の役割とは?」 ここで,「テロ」の語は,つぎの意味/文脈で用いる:
本論考は,「思想」の方法を用いる。 ひとは,なにか<ろくでもない>動きをする自動機械のように世の中が見えるとき,<思想>として,つぎの論考をつくる:
(2) そこからの脱け (解脱) 本論考は,これをつぎのように行う:
解脱論 →「教育」論 そして,「このろくでもない, すばらしき世界」を,「解脱」のモチーフとする。
本論考は,つぎの考え方をする:
商品デザインは,テロになる。」 これを立論しようとするならば,本来「商品・商品経済・商品経済社会」の論考へと溯る必要がある(註)。 しかし本論考では,乱暴ではあるが,「商品・商品経済・商品経済社会」については,つぎの雑駁なとらえで過ごすことにする:
商品経済のしくみとして,商品経済社会では「売れない○○」はオモテに現れない。 そこで,「よい○○」も,「売れない○○」になってしまえば,消えるのみとなる:
オモテに現れない「よい○○」替わって,「売れる○○」が「よい○○」になる。
「よい○○」は,ことばで定義することはできない。
しかし,ことばで定義できないことは,それが空虚な概念であることではない。 実際,「よい○○」は,Wittgenshtein の謂う「言語ゲーム」の意味で,現実的である。
現実的な「よい○○」に対し,理念としての「よい○○」もある。 これについても,ここで軽く押さえておく。 「必然/一意決定的造形」(論理/ルール的必然,機能的必然)の意味では,「デザイン」の語は使わない。 すなわち,不確定性は,「デザイン」のことばを使うときの要件の一つである。 ──「これも一局」が,デザインの作法。
そこで,「現れている○○=売れる○○」から反照的に,「隠されている/実現されていない○○」としての「よい○○」が理念として持たれてくる。
商品デザインとは,「売れる○○」のデザインのこと。 これは,「テロ」の語をつぎの意味で用いることにしたとき,テロになる:
──「商品デザインの方法」に対する「テロ」の見方: 実際,「よい○○」を退場させなければ,商売にならない。 「売れる○○」のデザインは,「よい○○」降ろしをやる。
商品経済の中で,ひとは予告なく・唐突に操作され,予告なく・唐突に世界を変えられる。 そして,このしくみが純粋に貫徹されると,共倒れになる。 そこで,商品経済社会では,テロを抑止・暴露する装置が必要になる。 これは,商品経済社会の聖域としてつくられる。 この聖域も,商品経済のテロの現場になる。 ── (聖域の意味を,わからないで/わかっていて) 自分の利得のために聖域壊しをする者が,入れ替わり立ち替わり現れる。 そこで,聖域を守る/商品経済の出過ぎを封じ込める装置が,聖域の中につくられる。 聖域を守る第一の装置は,国家である。 ──国家はこのとき,暴力装置として現れる。 この場合,「必罰」は商品経済を壊すので,「見せしめをつくる」という方法が採られる:
商品経済と聖域は,近づいたり離れたりを繰り返す (振り子運動):
一般に,振り子運動はつぎの条件のもとで起こる:
2゜忘却 (世代/担当交替) 実際,「二値思考」により「コレでなければアレ,アレでなければコレ」になり,「忘却 (世代/担当交替)」により「前に失敗した道を繰り返す」になる。 商品経済と聖域の接近・離反の振り子運動は,規制に関する緩和対厳格化の二値であり,やはり失敗忘却が要素になっている。 振り子運動は,いたるところで見出される: 振り子運動が起こりやすいのは,「二値思考」と「忘却」という人間の特性が自ずと導くところだからである。 ──また,つぎのような解釈も立つ:
商品経済社会では,振り子運動も商売の対象になる。 すなわち,新しい商品を投入するために,振り子運動を意図的につくり出す。
中央指導 (「リーダシップ」) 体制の組織は,「振り子運動」の条件を満たす: この振り子運動は,<組織の破産>を両極にしたものになる。 ──「リーダシップ」体制は,組織破壊を繰り返す振り子運動に嵌る。 特に,「組織改革」の最悪パターンは,「よいものを壊す」という形で組織を破産に導くところの,つぎの組み合わせである: 事例研究:国立大学の「法人化」 そこで,「リーダシップ」体制を退ける組織論を,考えることになる。 自由主義の組織論は,これである。 ──自由主義の考え方は:
アイデアの要点は,この知的生命体の<知>が「二値思考と忘却」を免れるものになる,ということである。 (どのみち,破産に向かうのかも知れないが。) 実際,これは,運動の不可逆モデルになる。
聖域の中に,教育がある。 教育は,商品経済のテロ性を暴露する役回りになる。 「売れる○○」が「よい○○」になってしまうのを阻止/抑止することが,教育の役回りである。 この意味で,教育の役回りは<反動>である。 教育の議論で,「時代を追う/時代に合わせていく」を言う者は,教育の役回りを取り違えていることになる。
教育が反動をやるのは,反動で勝利しようというのではない。 商品経済のテロ性の阻止/抑止が,商品経済の好き勝手な動きに対する「反動」になるということである。
教育も,商品経済のテロの現場になる。 特に,「リーダシップ」の組織論が起こり,「よいものを壊す」タイプの破壊が進む現場になる。
そして「改革」気分が,これに合わさる。 「改革」は,軟弱な教育を改革しようとする。 しかし,「改革」は,軟弱な教育を改革しない。 実際,軟弱な教育の現場に「改革」気分が湧くと,トンチンカンなことをやり出す。 これにより,軟弱教育がよけい軟弱になる。 「軟弱」とは,<大事>ができていないこと。 「軟弱な教育を改革」の問題の中心は,<大事>を思念できるようになることである。
ひとは,<大事>については思考停止する。 ──<大事>を考えることを,苦手にしている。
<大事>は,見えない。 存在として目に見えているものは,存在の上っ面である。 そして,存在は<存在連関>である:
<存在連関>は,複雑であり,そして目で見えるものではない。 学習経験を積むことが,見えてくるということである。(見えない/見ない = 思考の浅薄・脆弱) 「意味」「有用」「基本」は,<存在連関>を思考の対象にすることばである。 特に,「意味」「有用」「基本」は,単純な内容にはならない。
そもそも,教科教育は<大事>の伝承である。
学習は,<大事>の学習である。 「<大事>の理解」の人格形成的意味は,「<大事>の理解」が自ずと謙虚・真面目を導くということである。
教育は,「このろくでもない,すばらしき世界」の教育である。 このうち,「ろくでもない」の方の教育としては,商品経済のつぎのような面を取り上げる: (1) 商品経済は,<大事>を隠す。
──「売れる○○」が「よい○○」になる。 幻惑されて,<大事>が見えなくなる。慣れで,<大事>を見なくなる。 (2)「為人謀而不忠乎」(『論語』, 学而)
(3)「塞翁が馬」
いつも「いま」を「肝心な時」と感じ,「機会損失をしない」の考え方へ進む。 (4)「奢れる者は久しからず」
「自分は違うゾ」タイプが登場しては退場する。 「自分は違うゾ」「いまが肝心/決定的な時」の想いを持つのは,「若者」の特性である。 要点は,歴史の知識。 ──例えば,20年周期の振り子運動に対し「ああまたか!」のリアクションができるためには,最低一周期を経験できるだけの歳を取っていることが必要になる。 (→ 若者論/老人力論) (5) 中央指導(「リーダシップ」)体制は,組織破壊をする。
「すばらしき」には,「もののあはれ」が伴っている。 「もののあはれ」は,「はかなさ」を核心とする情趣である。 「はかなさ」は,<死>の意識である。 <死>の意識は,「身辺整理」に向かう。 そしてこれは,<大事>に向かうことである。 しかし,<大事>の思考は難しくてできない。 思考停止してしまう。 思考できないので,<情趣>のレベル止まりになる。 この情趣が,「もののあはれ」である。 情趣であれ,それは<大事>の方を向いている体勢である。 そこで教育は,これを「すばらしき」へのアプローチにする。
商品経済社会の教育は,自分の内なる「商品経済の侵食」も,問題にしていかねばならない。 現前の「これがよい」「こうあるべき」は,商品経済の所産である。 目に見えていない<大事> (「無用の用」) を想うことができねばならない。 これをどうやるか? 歴史 (昔の人の知恵) に大いなる「無用の用」(「無駄」) を学ぶ,というのが方法である。 |