Up 反対キャンペーン 作成: 2006-10-07
更新: 2006-10-07


    現時点で,「教育基本法改正」が立法的課題になっている。
    そしてこれに対し,「改正反対」のキャンペーンが組織的に立ち上げられている。

    教育基本法ほどのものは,多様な考えをたたかわせ,これによって独りでは気づかなかった論点に気づき,科学し,そしてしっかり論理的に構造化する,ということをやらなくてはならない。──「個の多様性」を原理とする自由主義/デモクラシーの考え方では,こうなる。

    しかし,このような形の議論を芽の段階からつぶすものがある。主要なものに2つ。 一つは,政府主導のディレッタンティズムである「有識者会議」。そして,もう一つは,議論のイデオロギー的/党派的囲い込み・回収。


    「反対キャンペーン」は,しばしば議論のイデオロギー的/党派的囲い込み・回収として行われている。その典型が,「呼びかけ人の声明への賛同署名」。

    「呼びかけ人の声明への賛同署名」がなぜ「囲い込み・回収」か?──本来議論に参画すべきところが,賛同署名に替えられ終えてしまうからだ。「声明」のレベルで思考停止し,自足する。(実際,このときの「声明」の機能的意味は,「意見」ではなく「指導テクスト」。)

      国立大学法人化が政治課題として現れたときにも,「賛同署名」タイプのイデオロギー的/党派的反対キャンペーンがあった。 いま彼らから国立大学法人のいまを批判する声は聞こえない。


    そもそも「賛同署名」というのは,問題提起・意見表明の形としては,きわめて奇異なものである。
    「個の多様性」を原理とする自由主義/デモクラシーには,<自分の考えの発信>に<議論/人の囲い込み・回収>を含めるという発想は無い。「個の多様性」の原理から出てくるのは,<囲い込み・回収>とは逆の<議論の場・内容を広く開き,発展させる>。


    実際,議論/人を囲い込み回収する資格のある言説をつくるとなると,相当な能力と覚悟が必要になる。 論理の飛躍,紋切り型,偏見・主観は,虚偽であり相手に対する瞞しになる。 「知的正直」は,結果であり,それは科学的・合理的な言説をつくることだ。
    このようなことはできることでないので,普通は「囲い込み・回収」など考えない。
    翻って,「囲い込み・回収」を考えるのは,よほどの独善者ということになる。

    そんな「独善者」はいるのか?──いる。
    信仰とかイデオロギーにつくとはこのような者になることであり,それはありふれたことだ。

    しかしわたしの感覚では,「呼びかけ人の声明への賛同署名」のような「囲い込み・回収」の手法は,教育上の主題・問題に際してとるようなものではない。

      例えば大学教員なら,科学的・合理的な言説を自ら示していくという形で「議論の場・内容の充実に努める」のが,本分・分限ということになる。