Up 大衆 : 要旨 作成: 2021-06-22
更新: 2021-06-22


    自由にとって,大衆はゾンビみたいなものである。
    ゾンビ相手は,お手上げである。
    <考える>が無く,<殺す>という一つの行動しか持たない者だからである。

    大衆の行動様式は,<リアクション>である。
    <考える>が無い。
    ──実際,考えたら,個/主体になるわけである。

    大衆は,「本日,札幌市街にヒグマが現れ,4人が襲われてケガ」のニュースに,「ヒグマ怖い」とリアクションする。
    「そのヒグマは,射殺された」のニュースに,「ひと安心」とリアクションする。
    <考える>は,ひとつもない。


    「4人が襲われた」は,人間がヒグマに<襲う>の格好をつくらせたのである。
    <襲う>の格好をつくらされたヒグマは,人を襲ったとして殺された。

    大衆は,ヒグマに罪をなすりつけて殺す。
    この「ヒグマ」は,何にでも置換可能である。
    大衆は,<罪をなすりつけて殺す>をする存在である。


    大衆が<罪をなすりつけて殺す>をするのは,邪悪だからではない。
    その逆の,無邪気だからである。
    無邪気は,<考える>をしない。
    殺すべしを示されたら殺すのである。

    ひとは,「人間以外は,それが人間にとって必要なら,駆除・抹殺されてよい」に洗脳されている。
    そしてこの洗脳は,「大衆でない者は駆除・抹殺されてよい」に転じる。

      人民革命イデオロギーは,「人民でない者は駆除・抹殺せよ」であった。
      人民でない者はウジ虫だから,駆除・抹殺すべきものになるのである。


    実際のところ,ひとは,個と大衆の二面をもつ。
    ジキルとハイドである。
    ひとの二面性を表すことばに「ホンネとタテマエ」があるが,この場合,ホンネは個と,タテマエは大衆と,対応する。
    しかしひとは,<大衆=タテマエ>が<個=ホンネ>を侵食する一方となる。
    社会は,ひとをこのように変える洗脳システムになっているからである。


    ひとは,人間を第一にしなければならないと洗脳されている。
    けがした人間と殺されたヒグマに対しては,けがした人間に同情しなければならないと洗脳されている。
    自由とは,洗脳させないということである。
    自由は,ヒグマに同情する。

    実際,ヒグマに襲われて人が負傷したり死んだという事件は,数字で示せばゼロに等しい。
    ──北海道の人口 520万人に対し,けがは年間数人,死ぬのはせいぜい1人といった程度である。
    しかし大衆は,「ヒグマは人を襲う」に洗脳されている。
    この洗脳された大衆によって,ヒグマはいつも罪をなすりつけられる。

    「山菜を採りに山に入ってヒグマに襲われた!」
    事実は,「ヒグマの領分に侵入し,ヒグマの食べ物を取って,ヒグマに叱られた」である。 ──山菜は,ヒグマの食べ物である。
    ヒグマが可哀想なのは,図体が大きく力が強いので,「叱る」が相手に大怪我をさせたり死なせたりになることである。
    そして,殺される。

    ひと (ものを考えない大衆) は,このようにどうしようもなく身勝手なものである。
    人間だったら人間を好きにならねばならない,人間の味方にならねばならない?
    「人間ならば人間を好きでなければならない,人間の味方でなければならない」は,洗脳である。