Up <制度・規則>としての学校 : 要旨 作成: 2021-07-03
更新: 2021-07-03


    子どもが学校に通うのは,学校に通うことになっているからである。
    その学校は,何かを教えてもらうために行くところではなく,行く意味の問いを封じて行くところである。
    その学校がそういうところであるのは,その学校は<制度・規則>だからである。


    制度・規則は,問いを立ててはならないものである。
    問いを立てると壊れるからである。

    実際,その学校は,何かを教えてくれるところでもない。
    教員は,教えるものを持っており且つ教える能力があるから教員なのではない。
    ひとは,教えるものを持っており且つ教える能力がある者ではない。
    教員も,同じ<ひと>である──超人ではない。

    ひとの阿呆は,そのまま教員の阿呆である。
    若者の阿呆さ加減はどうしようもないものであるが,これはそっくり若い教員のものである。
    ひとはいろいろな経験を積んで,だんだんと少しはましなものへと成長する。
    教員も,同じ。

    阿呆が教員を務められるのは,学校が<制度・規則>だからである。
    そしてこの一事は万事である。
    ひとは,出来ることを行うのでなく,役を行うのである。

    能力が無いのに役を行うのは,不安である。
    この不安を鎮めるのが,<制度・規則>なのである。


    自由は,<制度・規則>としての学校を不自由とする。
    自由は,<制度・規則>としての学校を,「牢獄」に喩えてきた。
    しかし,<制度・規則>としての学校は,自壊の兆候が見られるようになっている。

    <制度・規則>としての学校は,虚構の学校である。
    ひとがこの虚構を有り難がるのは,学歴が目的だからである。
    しかし社会は,学歴があまり物を言わない社会へと変わって行く。

    併せて,ネット時代ならではの実質的な教育的情報発信が溢れる中で,<制度・規則>としての学校はその虚構が暴露される一方になる。
    <制度・規則>としての学校も,ネット時代に己を合わせることをしてみるのだが,しかしこれが,虚構を引いて残る実質の貧弱を暴露してしまうことにしかならない。