Up 観想からサイエンスへ 作成: 2021-06-20
更新: 2021-06-20


    ひとは,信条 (イデオロギー) を持つ/持たされるようになる。
    信条は,洗脳されたものである。
    ひとに信条を持たせる──この操作が,洗脳である。

    自由を求める者は,自分が身につけて/つけさせられてしまった信条 (洗脳されたもの) を,一つ一つ剥ぐ作業をしようとする。
    そしてこの作業を理論化しようとする。

    この作業は,ひとが是とするものに対し否を措く作業である。
    これは,ひとから生物一般,生物から有機体一般,有機体から分子化合物一般,‥‥ といったふうに,自己解体させてみる作業である。
    手本は,<自然>──自ずと然りとして存るもの──である。
    <自然>から人を反照させれば,ひとがいかにグロテスクに己をつくり上げた存在であるかが見えてくる。


    この作業に取り組んだ者たちの思想でいまも参照できるものに,仏教がある。
    ただし,仏教から「救済」イデオロギー (大乗教),「曼荼羅」形而上学 (密教) を剔抉して残った部分である。
    それは原始経典と「禅」の良質な部分ということになる。

    この仏教の限界は,方法に「観想」しか持たなかった/持てなかったことである。
    ひとが是とするものに対する否を,明示的 (具体的) に措くことができなかった。


    ひとが是とするものに対し否を措く作業として行うこと,それはサイエンスである。

    実際,サイエンスをすれば,自ずと信条をもてなくなる。
    サイエンスをする者は,無神論者・アナキストになる。
    社会の敵,即ち反社になる。
    正義の敵,即ち悪になる。
    それがサイエンスというものなのである。

    現前の「科学者」は,信条を語る者であり,普通の者と変わらない。
    それは彼らが,サイエンティストではなく,「専門家」だからである。
    「専門家」は,サイエンティストのことではない。

    サイエンティスト,それはサイエンスする精神のことである。
    そしてサイエンスする精神は,自由を求める精神である。