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『美唄市百年史』, pp.316,317
また、明治35 (1902) 年になって現盤の沢町の滝ノ沢上流域に、沼貝村東部地域として唯一の殖民区画地が測設された。
わざわざ沢ぞいの傾斜地に設けた理由は、美唄川本流ぞいの少ない平畑一地がほとんど残っていなかったからであろう。
一区画 1万5000 坪 (5町歩) を基本として 41区画、願書の受け付けは同年12月から翌年3月まで行われ、西口隆義、長尾喜代太郎、重成利吉、定塚源右衛門、尾崎文五郎、瀬川辰次郎、横田浪三郎、槇田左吉、山崎三次郎、鈴木甚八その他が貸下げを受け、一般には東殖民地と呼ばれた。
主だった樹木はほとんど伐採されたあとであったが、せまい傾斜地のため、表土が流されて作物のできもよくないことから、大正期に入るとひんぱんに転売が繰り返されるようになり、美唄市街地の商人を始め少数の地主に集約されていった。
大正2(1913)年の凶作で、青森県から翌3年3月に八歳で移住した女性の談によれば、二年前に 入植していた父親の畑は他人のもので、家は草ぶきにむしろがけ、畑の収穫はほとんどなく、父は開鉱したばかりの飯田美唄炭鉱で働いて家族の旅費を送ったものであったという(『空知のむかしぱし」)。
一家は間もなく炭鉱の長屋に移っていったが、大正五年にはまだ20戸近い人家が山中に散在していた。
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