Up 盤の沢 作成: 2014-01-17
更新: 2024-02-02


徳田炭鉱/新美唄炭鉱 (1911-41)
三井新美唄鉱業所 (41-50) → 三井美唄鉱業所2坑 (50-54)
盤の沢駅

      角川日本地名大辞典 (1987)「ばんのざわちょう盤の沢町〈美唄市〉」
    昭和26年〜現在の美唄市の地区名。
    パンの沢・バンの沢・磐の沢とも書く。
    もとは美唄市 [美唄・光珠内・茶志内の3地区] のうち美唄地区の一部。
    当地は昭和16 (1941) 年には盤の沢・新美唄の2集落に含まれた。
    地内は桜が丘・本町・高台・滝の上に分かれる。
    字美唄・滝の沢・滝の沢原野などを含む地域。
    地名は南部を流れる盤の沢に由来する。
    盤の沢の表記が定着したのは,明治39 (1906) 年盤の沢教育所〈のち我路尋常小学校を経て大正7 (1918) 年現在の東美唄町に移り沼東小学校) が開設,同14 (1925) 年美唄鉄道の盤の沢駅が開業したことによる。
    明治20年代からの造材人に加えて明治35年頃から桜井農場への入植者が入り始める。
    明治36 (1903) 年滝の沢植民地の貸下げもあって同44 (1911) 年の戸数46 (我路尋常小学校沿革史)。
    大正2 (1913) 年盤の沢右岸域に徳田炭鉱開鉱,同4 (1915) 年新美唄炭鉱と改称,大正12 (1923) 年鉱員数87・年産 9,546 t (北海道鉱誌)。
    同14年三菱美唄炭鉱の滝の沢発電所完成。
    昭和9年三菱クローム精錬工場が開設されるが,9区 (桜井農場・滝の沢)と称されていた同10 年の戸数202 (美唄町史)。
    戸数の増加は昭和15 (1940) 年三菱の滝の沢坑開坑と,同16 (1941) 年三井鉱山の新美唄炭鉱買収による。
    昭和15年三菱は長屋約90棟建築 (炭鉱の生活史)。
    のち炭鉱住宅地は美唄川左岸の丘陵地を初め下流域の農耕地に拡大していった。
    昭和20 (1945) 年炭鉱に強制連行させられていた朝鮮人・中国人生存者帰国。
    同21年盤の沢小学校開校。
    同29 (1954) 年三井鉱山新美唄坑 (当時2坑) を撤退するが,三舟炭鉱が創業し,同30 (1935) 年は1,421世帯・6,789人
    盤の沢駅を中心に発電所・選炭場など炭鉱関連施設が分布し,病院・映画館・温泉旅館などが軒を連ねる。
    同35 (1950) 年三菱も滝の沢坑を撤退して美唄川上流部に操業域を縮小,北菱炭鉱を創業するが同41(1966) 年三舟炭鉱が閉山し,同45 (1970) 年232 世帯・756人と減少。
    同47 (1972) 年三菱美唄鉱,同48 (1973) 年北菱炭鉱閉山。

      『美唄史百年史』, p.441
     新美唄炭鉱が聞かれた盤ノ沢に、大正3 (1914) 年ころ古野浅次郎が同炭鉱の指定商として米穀雑貨店を開業し、炭鉱や桜井農場の小作人を相手に商売を始めたが、もともと小規模な炭鉱であったから市街地を形成するには至らなかった。
    のちの盤ノ沢商店街の原形を形成するのは、三菱美唄炭鉱の滝ノ沢発電所開設にともなって従業員住宅が増加し、美唄鉄道線盤ノ沢駅が開業する大正14 (1925) 年以降のことである。

(以下,画像はクリックで拡大表示へ)

1916年測図・1935年改修 地勢図



1962年 航空写真
国土地理院:地図・空中写真閲覧サービス から引用
坑口から選炭場へのインクラインが2本見える。
左は三井美唄鉱業所2坑,右は三菱炭砿滝ノ沢坑のもの。


階調を反転して,凹凸を強調:


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1969年 美唄史 1万分の1 地図から
1970年代北海道鉄道写真「美唄鉄道」から引用



1976年 航空写真
国土地理院:地図・空中写真閲覧サービス から引用:




『美唄市百年史』, p.1020から引用:
三井美唄鉱業所2坑



『足跡 : 三井美唄35年史』, 三井美唄鉱業所臨時事務所, 1964.5 から引用:
二坑選炭機 (建物左の円筒形構造物)



1970年代北海道鉄道写真「美唄鉄道」から引用
滝ノ沢発電所・盤の沢駅・選炭場 (三菱炭砿滝ノ沢坑)
遠方にかすんで三井2坑の選炭場が見える
手前の建造物は,冷却塔 (八角型 直径25.6m)


三井2坑選炭場跡の方から滝ノ沢発電所を望む
三井2坑選炭場跡



二坑選炭機遺構へのアクセス
Google Map から引用: