Up 『非難民生活』: はじめに 作成: 2024-02-10
更新: 2024-02-10


    今日,「自然災害」はひどく厄介なものになった。
    被災者・被災地域に対し, 「復旧・復興まで手当てを続ける」をポーズせねばならなくなったからである。

    「復旧・復興まで手当てを続ける」は,ポーズである。
    できることではないからである。
    しかし,できるふりをしなけらばならない。
    今日では,できるふりをしないと「人でなし」ということになるからである。

    「人でなし」になるわけにはいかないという強迫は,被災者の側にもある。
    行政の「手当て」は,被災者を一括りにすることが,最初のステップになる。
    被災者は,「被災者」らしくすることを,自分に強いるようになる。
    「被災者」らしくしないのは,「人でなし」になるからである。


    大きな「自然災害」は毎年起こる。
    今日,「自然災害」はみな「大きな自然災害」にされるからである。
    こうなるのは,「大きな自然災害」ということにしないと「人でなし」になるからである。
    この結果,「復旧・復興まで手当てを続ける」は,累積する。

    「復旧・復興まで手当てを続ける」がポーズであることをひとが知るのは,「被災者」数が百万人単位規模の「自然災害」が起こったときである。
    首都直下地震や南海トラフ地震は,このような「自然災害」になる。

    首都直下地震や南海トラフ地震は,「起こらないで欲しい」という話ではない。
    少なくとも首都直下地震は,近いうちに来る。


    「被災者」数が百万人単位規模の災害では,行政はお手上げになる。
    しかし,ひとは手当てを当て込む頭になっている。
    「復旧・復興まで手当てを続ける」を頭に擦り込まれている (洗脳されている) からである。
    <待ちを構えとする被災者 -対- お手上げの行政>の絵図──これは,「にっちもさっちも行かない」の絵図である。
    首都直下地震や南海トラフ地震では,これを見ることになる。


    「にっちもさっちも行かない」に対しては,「是非も無し」の達観もある。
    しかしここでは,「ひとはともあれ,自分は免れる」を試してみることにする。


    問題の所在は,ひとが「自然災害では,復旧・復興が手当てされることが当然」の頭になっていることである。
    この考え方は,ごく今風のものである。
    自然災害は自然のうちである。
    しかしひとは,「自然災害は自然のうち」の頭が育つ生活形態を,すっかり捨ててしまった。

    築いた物は,壊れる。
    自然の歴史も人の歴史も,築いては壊れるの繰り返しである。
    築いた物は,<壊れたら復旧・復興されるべきもの>ではない。
    先ず,このアタリマエのことが思想・信条にならねばならない。


    「自然災害は自然のうち」の頭になる生活は,壊れてもひどいダメージにならない形態の生活──非難民生活──である。
    究極は,粗末な自給自足生活である。
    しかし,壊れてもひどいダメージにならないためにこれに向かうというのは,これまた本末転倒の気味がある。
    要点は「中庸」──落とし処──である。
    これを,ゆっくりつらつら考えてみるとしよう。