Up | 「鏡像自己認知」実験は,何の実験か? | 作成: 2021-12-02 更新: 2021-12-03 |
動物が鏡に映った自分の像を自分だと認知するかどうかを調べ,動物の知能がどれほどのものかを探ろうというものである。 つい最近,『魚にも自分がわかる』がタイトルの本が出た。 内容は,魚のホンソメが鏡像自己認知をしたというもの。 そしてこれを,「魚にも自分がわかる」に敷衍したというわけだ。 「鏡像自己認知」を立てる研究者は,鏡像自己認知を知能の高さのしるしと見なしている。 「魚にも自分がわかる」のことばには,「魚を昇格させてやった!」の思いが見える。 しかし,鏡像自己認知は,知能の高い者には当然のことなのか? わたしが観察しているハシボソガラスは,鏡像自己認知しない。 しかしこのことから「ハシボソガラスはホンソメより知能が低い」とはなりそうもない。 実際ハシボソガラスを観察していると,「知能の高いことが逆に鏡像に躓く」という面が見えてくる。 よって,つぎの疑問をもつ:
ひとが鏡像自己認知を当然としているのは,「鏡」を生活経験しているからである。 また,学校で「鏡」の科学を勉強させられたからである。 鏡の無い文化のヒトが鏡の前に立たされたとき,それははたして鏡像自己認知をするか? こう考えてみよ。 時代は,高精度ホログラムが鏡になっている。 鏡像は,本物そのものである。 研究者はこの鏡を使って,「未開社会」のヒトや動物に対し鏡像自己認知を実験する。 さてこの設定は,ヒトや動物が事態を自ずと鏡像自己認知へと収束していくようなものか? ヒトの場合だと,自分が錯乱したと思う。 傲慢な者なら,世界がおかしくなったと思う。 なぜこう思うか? 「自分」の概念には「自分は一つ」が含まれているからである。 鏡を知らない者に対する「鏡像自己認知」実験は,<知能が高くて「自分は一つ」の概念をもっている動物>に対しては, 「自分は一つ」を崩壊させる実験なのである。 崩壊させられまいとする者は,鏡に抵抗する。 そしてその中の優秀な者は,科学という方法で抵抗し,鏡の科学をつくるというわけである。 わたしが観察しているハシボソガラスの場合は,鏡の科学ができないので,鏡にむやみに抵抗する者になる。
♀は臆病な性格なのだが,鏡に対しては果敢に挑む。 喚きながら鏡像にアクションし,鏡像がどんな具合のものかを調べ,鏡を色々な方向から調べ,部品を外すという仕方で解体も試みる。 ──これを飽きずに行う。 執着が過ぎてメンタルをおかしくしそうな趣きへと進むので,この観察実験は行うとしたら慎重に行うべきである。 「鏡像自己認知研究」を立てる者は,根本的な問題に思考停止して実験を行っていることになる。 ──その実験は,根本的な問題に思考停止しなければ行えるものではないのである。 実験が対象にする動物は,つぎのように思っている者でなければならない: そして実験は,この者を鏡の前に置いたらつぎのように思うかどうかを見ようというものである: このように,鏡像自己認知実験は,対象動物にかなり高度な認知構造を想定するものになっている。 ホログラムの鏡を喩えにして論じたように,この想定はヒトに対しても無理がある。 わたしが観察しているハシボソガラスのように,「自分の前にある物は,自分の像 (自分であるが自分ではないもの) である」のところで躓いてしまい,つぎの「自分は,こんな顔・姿をしているのだ!」に進むどころではなくなる可能性が大である。 『魚にも自分がわかる』のホンソメには,「自分の前にある物は,自分の像 (自分であるが自分ではないもの) である」の認識に至っていると結論させるものは無い。 そのホンソメの行動は,「自分の前にある物は,自分の像 (自分であるが自分ではないもの) である」の認識に基づいていると考える必要のないものである。 即ち,「そのホンソメにとって,鏡像は<他山の石>」の解釈で済む。 結論すれば,鏡像自己認知実験は,動物種の知能実験としてはナンセンスである。 対象動物の生活・生態に基づかないものだからである。 この実験につけられる意味は,せいぜい<科学者的資質のある個体を見つける>である。 |