Up ディジタル教材に伴う問題の理解 作成: 2008-08-16
更新: 2011-10-20


 1.  趣旨
 2.  ディジタル・コンテンツは,作り手・送り手の都合/満足の表現
 3.  ディジタル・プレゼンは,「ショー」で終わってしまう
 4.  ディジタル・プレゼンをつくる者が嵌る落とし穴
 5.  授業の条件
 6.  授業者が嵌るディジタル教材の落とし穴
 7.  例:算数・数学の授業の場合
 8.  「チョークと黒板」の意味
 9.  従来型の授業をする力が基本
 10.  授業でディジタルコンテンツを使う場合
 11.  オンライン教材――実現はたいへん
 12.  ディジタル教材に取り組む意味を考える
 13.  参考




1. 趣旨
  1. 国立大学が一律インターネットにつながったのが 1994年3月,それからほぼ 15年。
    この間,インターネット/ITの普及と定着が着実に進行。──特に,2000年以降は急速に進行。

  2. 「教育的コミュニケーションでのIT活用」の基本形である「ディジタル・プレゼン」「WBT」が定着。
    「教育におけるインターネット/IT活用」の「なんぼのものか」が,見定められるようになってきた。
      以前の問い:「なんぼのものになるか?
      いまの問い:「なんぼのものであるか?

  3. <批判>の立場からの論考が必要。
    • 広く・深く考えられるために,多様な視点・論点をもてることが重要。

  4. この立場から,授業にディジタル・コンテンツを使うことの<問題点>を取り上げ,「授業にディジタル・コンテンツを使う<意味>」の考察へとつなぐ。

2. ディジタル・コンテンツは,作り手・送り手の都合/満足の表現
  1. ディジタル・コンテンツには,作り手・送り手にとってのメリットがある。

    • 作成が簡単,速い
    • きれい・見栄えのよいものがつくれる
    • 保守・管理,つかい回しが簡単
    • インターネットに乗せられる

  2. 作り手・送り手の都合/満足は,受け取る側の都合と関係なし。
    そして,作り手・送り手は,受け取る側の都合の問題を見過ごしてしまう。

    このことを,つぎの「ディジタル・プレゼン」で見ていく。

3. ディジタル・プレゼンは,「ショー」で終わってしまう。
  1. 受け手は,「注意の向け先が定まらない」体勢を強いられる。

      プレゼンターは,ディスプレイのどこを指して話しているのか?
      ディスプレイを見るのか,話を聴くのか? (両方一緒にはできない。)

  2. 内容が,アタマ/カラダに残らない。

    • ディジタル・プレゼンのコンテンツは,
      • 流れる景色
      • バーチャル
      • きれいにつくられている

    • 「流れる景色」(目・耳で追いかける形のもの) は,アタマに残らない。
    • バーチャルは,カラダをすり抜ける。
    • きれいにつくられたものは,受けとめられない。
        「きれい」は,作り手が整理を重ねることの結果。
        この整理の中身は,本質抽出・形式化。
        「整理される」は,「直接的でなくなる」であり,受け手にとって難しいものになること。

  3. このようなディジタル・プレゼンは,「伝える」メディアではなく,「伝えたことにする」メディア。

    • ディスプレイが終了 = 「伝える」が終了
    • 「セレモニー」になってしまう
      • 裏返せば,セレモニー向き

  4. どうしてこうなるのか?
    ディジタル・プレゼンをつくる者が嵌る落とし穴がある。

4. ディジタル・プレゼンをつくる者が嵌る落とし穴
  1. ディジタル・プレゼンは,インタラクション向けではない。
    実際,インタラクションを考えるときは,ディジタル・プレゼンの形は使わない。

  2. ディジタル・プレゼンの設計では,<相手>が存在しなくなる。

         プレゼンを,インタラクションが無い形に設計
       → <相手>が存在しなくなる

    確認: <相手>は,つぎのことによって意識されるものになる:
    • インタラクションが起こるようにメディアをつくる。
      (相手のことを考える。)
    • 意思疎通に失敗し,愕然とする。
      (<他者>(想定外) として相手が立ち現れる。)

  3. <相手>が存在しなくなるとき,<相手>は自分。
    ──「伝える」を「伝わる」とイコールにしてしまう。

         「自分の伝えるものは,相手がそっくり受け取る」
       → 相手=自分の言うことがそのまま通じる者
       → 相手=自分

  4. プレゼンは,プレゼンターの「独り言」になる。

    • 相手がついて来れない盛りだくさんで難しい内容にしてしまう。

      • 「相手のずっと先を行っている/相手よりずっと多く知っている」でなければ,プレゼンターが務まらないと思ってしまう。
        そして「相手=自分」なので,自分の知らないことを新しく勉強し,これをプレゼンの内容に追加していく。
        こうして,盛りだくさんでそして難しい内容になっていく。

    • コンテンツと時間の配分を,相手不在でやってしまう。

      • ディスプレイ&説明に自分が要する時間をもとに (「相手が受け取れる時間をもとに」ではなく),コンテンツを並べる。
      • 特に,「時間が余る」計算になるときは,コンテンツをさらに加える。

    • 盛りだくさんを消化するために,早口になる。

  5. このことが,「授業におけるディジタル・コンテンツの使用」でも,起こり得る。
    これを,つぎに問題にする。

5. 授業の条件
  1. ディジタル教材/学習材を考える者は,その前に,つぎのことをしっかり理解していなければならない:

    • 「わかる」とはどうなることか
    • 「わからせる」とは,何をすることか
    • 新しい内容を受けとめ・消化するのはすごくたいへんである,ということ。
      ──学習においては,カラダはひどく不自由なものである。
    • 目に見えない・意識に上らない色々なことが,「わかる」に関係している。

        つぎの図が「直方体」に見えるのは,アタリマエではなく,いろいろ勉強してきたことの賜である:


  2. 「わかる」とは,「つくれる」になること。
    「教える/わからせる」は,「つくれるようにする」。
    • 教科の個々の主題は,それぞれ一つの「つくる」。
      ──実際,対象の分析・再構成の仕方が,主題になっている。

        例:「和音」(音楽),「扇状地」(地理),「円」(数学)

    • よって,「わかる」とは,「つくれる」になること。

  3. 「見る・聴く」は,「つくれる」にならない。
    「つくる」は,自分で実際にカラダを使わないと,身につかない。
    • 見ているが見ていない,聴いているが聴いていない。
    • 「つくる」は,カラダのもの (身体性) である。
      自分で実際にカラダを使わないと,身につかない。

      • 目に見えているものを知るために,スケッチする。
      • 読めるが,書けない漢字。
      • 泳ぎを見て泳げるようには,ならない。

  4. よって,授業の形は,「カラダを以て,つくらせる」。
    「見せる」は,「教える/わからせる」にはならない。

  5. 授業は,ゆっくりやらねばならない。
    • 「つくる」ができるようになるのには,時間がかかる。
      これは,カラダの都合による。──カラダは,不自由なものである。
    • 特に,新しいことは,僅かな量でも・簡単なことでも,できるまでに時間がかかる。


6. 授業者が嵌るディジタル教材の落とし穴
  1. ディジタル・コンテンツを使用するとき,傾向性として,授業者は授業の条件に反することをやってしまう:

    1. 授業の形が,「つくらせる」ではなく,「見せる」なってしまう。
      ──「見る=できる」にしてしまう。
    2. 授業の進行が速くなってしまう。

    ──わからない授業をやってしまい,そしてそのことに気づかない。

  2. ディジタル・ディスプレイは,「つくる」を教えられない

    • ディジタル教材/学習材をつくろうとする授業者は,「つくる」のバーチャルをつくろうとする。
      しかし,「つくる」のバーチャルでは,「つくる」を教えられない。

  3. 「ディスプレイで捨てられてしまっているもの」に気づけることが重要。

    • 図・記号・テクストのディスプレイは,この図・記号・テクストをつくる工程(書き順・組み立て順序) を示していない。
    • 工程のステップ・バイ・ステップのディスプレイ,あるいはアニメーションへとつくり込んでも,この図・記号・テクストをつくるカラダの動き・力加減・呼吸といったものを示せない。

  4. ちなみに,「カラダを閑却し,<つくる>を教えない」という誤りを同じく犯しているものに,「ワークシート」がある。

7. 例:算数・数学の授業の場合

(1) 推論
    推論を「見せる」は,「わからせる」ではない。
    推論は,所与からそれの含意の一つを「結論」として導く論理的な行程をつくること。
    推論が「わかる」とは,この「つくる」を自らできること。

     例:「量の表現」のしくみ(論理)

    簡単なことのように見えるが,実際に自分でいろいろ書いてみることをやらないと,使えるようにならない。

(2) 図形
    図形を「見せる」は,「わからせる」ではない。
    「図形」は,図のつくり方 (構成の論理的方法) のことに他ならない。
    図形が「わかる」とは,この「つくる」を自らできること。

     例:単体複体

    簡単なことのように見えるが,実際に自分でいろいろ書いてみることをやらないと,使えるようにならない。


8. 「チョークと黒板」の意味
  1. 「チョークと黒板」は,つぎの授業条件に関して合理的:

    1. 授業の形は,「つくらせる」。
    2. 授業は,ゆっくりやらねばならない。──カラダが「つくる」を身につけるのには,時間がかかる。

    実際,
    1. 授業者の書く行為に,「つくる」のカラダの動きが示されている。
    2. 授業者が書くのと合わせて,学習者の読み・受け取りが進行。

9. 従来型の授業をする力が基本
  1. ディジタル教材を使うと,どうしても,「相手=自分」「見る=できる」になってくる。

  2. また,ディジタル・コンテンツを使う授業に執心すると,基本の修行が疎かになる/忘れられる。

  3. 基本になるのは,従来型の授業をする力。

  4. 授業経験の浅い者は,それでなくとも,「相手=自分」「見る=できる」で,授業をやってしまう。
    授業経験の浅い者は,ディジタル教材に執心してはならない
    ディジタル教材をやる前に,従来型の授業をする力を先ずしっかり身につけるべき。

    • 「ワークシート」についても,これと同じことがいえる。

10. 授業でディジタル・ディスプレイを使う場合
  1. ディジタル・ディスプレイを使ってよいのは,ディスプレイでほんとうに済ませられる場合:
      「導入」 : 目標を示す。 (「これが何であるかは,実際に到達したときにわかる。」という形の提示)
      「展開」 : 素材として,既習を導入──これの提示。
      資料を示す。
      「まとめ」: 目標到達としての完結形を示す。
      行程を振り返る。

  2. ただし,このような「ほんとうに相応しい場所で使う」をやろうとすると,授業の中でメディアの切り替えをやっていくということになり,今度は,「面倒/煩瑣」「授業の流れが悪くなる」という別の問題が生じてくる。

11. オンライン教材――実現はたいへん
  1. オンライン教材は,いろいろな・たくさんのメリットがある。
    しかし,オンライン教材の実現はたいへん。──実際,一生プロジェクトになると考えた方がよい。

  2. オンライン教材の実現は,つぎのステップを踏む:

      1. オンライン教材づくりが志向される。
      2. コンテンツ作成およびサーバシステム構築に取り組む。
      3. コンテンツおよびサーバーシステムが一定程度できあがる。
      4. 生徒がオンライン教材を自学習に使うようになる(註)

       (註)「つくる」イコール「使われる」ではない。

    そして,絶えず修正・改良作業をし続けることになる。

    • 最初「よい・正しい」と思っていたものは,「拙い・まちがい」になる。
      これは,経験・学習の蓄積の賜。

12. ディジタル教材に取り組む意味を考える
  1. ディジタル教材は,教材の望ましい形 (将来形) なんかではない。

  2. 「使えるディジタル教材」は,失敗体験の十分な蓄積の上に,可能になる。
    • ディジタル教材を試行することの収穫は,失敗学。
      ディジタル教材の失敗学から,「教える/わかる」とはどういうことかが反照的に理解されてくる。

  3. 教科専門性が根本。
    • 教科専門性が弱ければ,確かな教材はつくれない。
      ──しかも,自分の間違いに気づけない。(← これがいちばんこわいこと。)
      メディアリテラシーが教材をつくらせるのではない。教科専門性が教材をつくらせる。
    • 「近道」を信じてはならない。
      ──この意味で,「センス」を信じてはならない。

13. 参考: